翻訳への並々ならぬ凝り性ぶり
「ユリシーズ航海記」柳瀬尚紀著/河出書房新社 3200円+税
昨年7月30日、「ユリシーズ」完訳を目前に逝ってしまった柳瀬尚紀。筒井康隆の「現代語裏辞典」に、「こりしょう【凝り性】柳瀬尚紀。」とあるように、1行を訳すのに20冊くらいの研究書を読むといわれるほど、その翻訳への並々ならぬ凝り性ぶりはよく知られていた。また、大の猫好き、将棋好き、競馬好き、そして言葉好きとしても有名で、本業の英文学以外の分野でも数多くの著作を残している。
柳瀬尚紀の名前を初めて知ったのは、ルイス・キャロルの「シルヴィーとブルーノ」(柳瀬訳 1973年)だったか。その訳注を読んで、キャロルの言葉遊びとそれを翻訳する難しさと楽しさを教えられたのを覚えているが、驚きだったのは、ジョイスの「フィネガンズ・ウェイク」を訳したことだ。言語遊戯を駆使し、翻訳不能といわれたこの作品に取り組んだ訳業は、日本の翻訳史上の「事件」といってもいい。
そしていよいよ「ユリシーズ」である。全18章のうち12章までは刊行され、残りもそろそろ完成するらしいとの噂を聞いていた時の死だった。
本書には、「ユリシーズ」関連のエッセーの他、未完の13・14・16・18章の断片、17・15章の訳稿が収められている。たとえば、crossblindという英語にはないジョイス語を、なぜ「連桁ブラインド」にしたのかを、ジョイスの音楽技法を駆使した書き方から説き起こし、各種音楽事典を渉猟して「連桁」という語に行き着く過程を事細かに語っている。
「ユリシーズ」全体の構成からジョイスの言葉のリズムなどに徹底的にこだわり、それに見合った日本語を確定していく。この気の遠くなるような作業をひたすら行っていたと思うと、ただただ頭が下がる。完訳を果たせなかったのはさぞ無念だったろう。しかし、あの柳瀬さんのことだ。誰かに乗り移ってでも、いつか完成させるに違いない。
<狸>