「DEER LAND―誰も知らない鹿の国―」佐藤和斗著
奈良公園で観光客を出迎える鹿たちは、1300年ほど前、武甕槌命(タケミカヅチノミコト)が御蓋山に奉還された際に乗っていた白い鹿の子孫である神の使い「神鹿」として保護されてきた。人間の暮らしのすぐ近くに生息する野生の鹿は、世界でも希有の存在であり、「奈良のシカ」として国の天然記念物にも指定されている。
その奈良の鹿たちの姿を追った写真集なのだが、私たちがその名を聞いてすぐに思い浮かべる、公園で観光客にせんべいをねだる人懐っこい鹿たちの姿は一枚も出てこない。
公園の背後に広がる山と森がつくり出す広大な神域に暮らす鹿たちの姿は野生そのもの。カメラは、美しい奈良の豊かな自然を背景に彼らの四季を追う。
初冬の朝日を浴びながら草をはむ群れ、朝日に体が包まれてもまだ気持ちよさそうに寝ている鹿、冒険するかのようにそろりそろりと森の中に足を踏み入れていく子鹿、そして、降りそぼる雨に濡れ、人間のような表情でふと空を見上げる鹿など。人の気配がまったく感じられない自然の中でのびのびと振る舞う鹿たちの姿を切り取る。人の心まで見透かしているかのようなその大きな瞳と豊かな表情は、確かに神鹿の名にふさわしく、自分たちがまったく彼らのことを知らなかったことに気づかされる。
その他にも、大きくつややかで立派な角をそれぞれが頭に乗せ、夏の夕暮れに涼を求めて集まってきた雄鹿の勇壮な群れや、暗い森の中でそこだけがスポットライトを浴びたように輝く空間で繰り広げられる親子の時間、満開の桜の下でまるで花見でもしているかのようにくつろぐ群れ、なんの戯れだろうか錦秋の森の風景を映し出す水面にじゃぶじゃぶと足を踏み入れ、いたずらっ子のように振り返る鹿など。1000年以上も繰り返されてきた鹿と自然の営みが、読者の目前で繰り広げられる。
そんな鹿の国の一角に、王が暮らす森があるという。いつもは素通りするその場所に吸い寄せられるように立った著者は、明らかに他の鹿たちとは異なるたたずまいの一頭の雄鹿に出合う。著者が「王様」と呼ぶその鹿は、見事な体躯を持ち、その威厳に、歩けば他の鹿たちが道を譲る。王様はそんな一匹一匹にやさしい表情で声をかけて回るという。
終盤に山の上から見下ろす奈良の町の写真を見るまで、すっかり忘れていたが、王様が率いる鹿の国は驚くほど人間の町の近くにある。町のすぐ近くにこれほどの深く豊かな自然が残されていたからこその奇跡なのだろう。
奈良の人たちでさえ知らない王国で暮らす鹿たちのリアルな姿に時間が経つのも忘れて見入ってしまう。やはり彼らは神の使いに違いない。
(青菁社 2200円+税)