「円谷幸吉 命の手紙」松下茂典著
昭和39年の東京オリンピックを経験した世代は、円谷幸吉を悲劇の長距離ランナーとして記憶している。マラソンで銅メダルを獲得、次回のメキシコ大会での活躍を期待されたが振るわず、五輪の年の正月明けに自刃した。一編の詩のような美しい遺書を残して。
東京五輪当時、小学4年生だった著者は、教室に置かれた白黒テレビでマラソンを見た。ゴール間際にイギリスのヒートリーに抜かれ、フィールドに倒れ込む円谷の姿が銀メダルを逃した“敗者”に映ったという。長じてスポーツノンフィクション作家になった著者は、見えない糸に導かれるように円谷の死の真相を追うことになった。
大きな手がかりは円谷が残した手紙。円谷は親きょうだいをはじめ、自衛隊の教官、友人らに、膨大な量の手紙を書き送っていた。親族の家から見つかった手紙の束や関係者が大切に持っていた手紙が快く資料として提供された。円谷が書き残した文字面や文面から、その素顔が見えてくる。
きちょうめんで律義。天性の明るさを持ち、おちゃめ。7人きょうだいの末っ子で家族に愛され、陸上競技の教官や友人にも恵まれた。だが、メキシコを目指す円谷の人生は、徐々に暗転する。自衛隊体育学校校長との軋轢、教官の左遷、初恋の人だった婚約者との破談、体調の悪化。手紙の内容も、強気と弱気が入り交じる。両足のアキレス腱を痛め、椎間板ヘルニアの手術をし、ベッドに横たわっている間にも、他の選手たちの記録が伸びていく。円谷は衰えゆく肉体にあらがうように走った。
戦友ともいうべきマラソンランナー君原健二は円谷のこんな言葉を覚えている。「日の丸を揚げるのは国民との約束なんだ」。その約束はとてつもなく重いものだった。
著者は円谷の最期の日々に付き添った謎の女性がいたことを知り、消息を追う。破談した元婚約者に真意をただそうと試みてもいる。人間・円谷幸吉の哀切がにじむ感動のノンフィクション作品。
(文藝春秋 1400円+税)