気球で西ドイツへ脱出した一家の実話
「バルーン」
自由な意思で動くことができず、他人との接触を恐れる社会。べつに新型コロナウイルス禍に揺れた日本の話ではない。
1970年代末、まだベルリンの壁が倒れる気配すら見せなかった時代の東ドイツの話である。そのころ、一家総出で、なんと気球を使って東西国境を越えた家族がいたという。この信じがたい実話を映画化したのが来週末封切りのドイツ映画「バルーン」だ。
舞台は現ドイツ中部、「緑の心臓」の異名をとる緑豊かなテューリンゲン州。ここに住む電気技師の一家が、息子に迫る兵役を機に脱出を決意する。しかし、向かいに住む一家の主人は悪名高い秘密警察シュタージの捜査員だった。
物語は既に計画を秘密裏に進める途中から始まるが、他人の目を恐れ、事情を知らない幼児の口からもれる秘密計画のゆくえに一喜一憂するさまが、活発なカット割りと登場人物の視線の交錯でてきぱきと描かれる。脱出劇の怖さとは、つねに最悪の事態を思わずにおれない人間心理に由来する。その結果、人は“強制的な自粛”を黙って受け入れ、知らぬふりでやり過ごそうとするのだ。
それにしてもこの映画、偶然とはいえ、韓国の脱北者団体が大型の風船で宣伝ビラを散布し、北朝鮮側を激怒させたという最近の事件を連想する人もあるだろう。
実際のところ現代の気球技術は数トンの重量物を成層圏にまで飛ばすことができるという。矢島信之ほか著「気球工学」(コロナ社 3000円+税)は宇宙工学分野における気球飛翔技術の専門書である。
本書刊行時(2004年)は未確定だったスーパープレッシャー気球(ヘリウムガスを放出しない内圧維持型)もいまでは実用化され、将来は観測機器を積んで3カ月間ほど滞空できるようになるという。
映画に出てくる気球とは10倍も高度差があるが、航空ファンには魅力的なお話だ。
<生井英考>