「民衆暴力」藤野裕子著
年明け早々、トランプ大統領支持者らが米連邦議会に乱入し、5人の死者を出すという事件が起きた。トランプのツイッターによる扇動が要因とみられているが、大勢の人々が窓ガラスを割って押し入る映像は、民衆の中に渦巻く暴力のすさまじさを見せつけた。現代の日本でこうした光景を間近に目にする機会はほとんどないが、過去の歴史において民衆の暴力があらわになったことは幾たびある。
本書は、日本の近代における民衆の暴力行使の様態を多様な角度から検証したもの。
本書には明治初年に起きた新政府の政策に対する一連の一揆(新政反対一揆)、自由民権運動期の秩父事件、日露戦争終結後に起きた日比谷焼き打ち事件、関東大震災の時の朝鮮人虐殺の4つが取り上げられている。江戸末期には仁政による統治形態が幕末に崩れ、規範や道徳では収まりきらない民衆のエネルギーが「ええじゃないか」のような世直し一揆として噴出する。
明治初頭の新政反対一揆はそうした世直し的な解放願望を引き継ぎながら、急激な改革に対する強い拒絶を示した。その憤まんは新政府に向かう一方で、賤民廃止令によって解放された被差別部落民へも向けられた。この構造は関東大震災における朝鮮人虐殺においても同様で、震災当初から警察が朝鮮人に対する流言・誤情報を積極的に流し、それにあおられた各地の民衆が朝鮮人を襲撃し、その勢いで警察署への襲撃も行われた。
これまで秩父事件が自由民権運動の「最高の形態」と評されていたように、一揆や反政府運動は民衆の国家権力に対する抵抗運動という見方が強かった。しかし、時には民衆自身の意思で喜々として被差別者へ残酷、無慈悲な形で暴力が行使された事実は重く受け止めなくてはならない。著者はいう。「権力に反発する意識と他民族などを差別する意識は、一人の人間や社会集団のなかに矛盾なく存在し、ひとたび始まった暴力を契機に、両方が引き出されることがあり得る」と。
コロナ禍の不安下にある現在、この言葉を肝に銘じたい。 <狸>
(中央公論新社 820円+税)