「マスクをするサル」正高信男氏

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 新型コロナウイルスのワクチン接種が始まっているが、マスクが手放せない生活は当分続きそうだ。本書では霊長類学者であり発達心理学者である著者が、マスク着用が標準化された今、人間のコミュニケーション、さらには性にどのような変容がもたらされるのかを考察している。

「チンパンジーやニホンザルなどは、相手の口とその周辺、すなわち口唇部をチラ見することで互いの状態を推察します。つまり口唇部さえ注意しておけば、相手の感情を見誤ることはないわけです」

 霊長類は怒りが高じると口唇部はすぼんで前方に突出し、恐怖を感じれば口唇部が水平方向かつ後方へ収縮するなどの変化が表れる。そこから相手の感情を忖度するのが霊長類の処世術の基本だ。そしてこのような行動傾向は、ヒトにおいても継承されているという。

「ヒトには怒りや恐怖以外にも笑う、泣くなど多彩な感情表現があり、その主要な役割を演じているのが口唇部です。つまり、マスクが標準化されて眉と目しか露出されていない今、相手の気持ちを推察することが非常に難しくなっているのです」

 とはいえ、マスク着用そのものを否定するつもりは毛頭ないと著者。むしろ生活必需品となったマスクを“楽しむ”という感性を磨いたらどうかと提案する。

「マスクを必要悪としてネガティブに捉えるのではなく、自己表現の道具として取り込んでみてはどうでしょうか。ヒトは他の動物と違い、“自分”と“外界”の区別を発達に従って流動的に変化させることができます。道具使用の習熟によって、その道具を身体の延長部位のように感じることができるわけです」

 仕事中にネクタイをしていないと落ち着かないというベテランビジネスマンも多いだろう。これはネクタイを身体の延長物として取り込んでいることの表れだという。ならばマスクも嫌々着けるのではなく身体に取り込み、自己表現の道具にしてしまえばいい。

「勝負ネクタイのように、マスクも色やデザインにこだわれば、表情が隠されるというデメリットを補うどころか感情をアピールする道具にもできます」

 さらに本書では、マスクがヒトの性意識を変える可能性にも言及している。人間が陰部を隠すようになった下着の起源についても解説しながら、今まで露出していた口唇部をマスクで隠すのがマナーであるというふうに激変した今後、どのような変化が起こるのかを考察している。

「学術的には『主観的輪郭』と呼ばれる心的現象で、ヒトには遮蔽された対象を自動的にイメージする能力があります。そして隠された部分への興味や想像力が興奮につながり、性的な意識も変化していく可能性が考えられます。不謹慎だと叱られそうですが、素顔よりも“マスク美人”を好んだり、何かの拍子にチラリと見える女性の口唇部に興奮する男性も増えるかもしれません」

 もちろんこれは女性にも言えることで、“マスクイケメン”や男性の口元への熱狂が起きる可能性もある。ただしくれぐれも言いたいのは、マスク着用を揶揄しているわけではないということだと著者。

「ヒトは道具を身体の延長物としたり、隠れた部分を想像するなどユニークな能力を備えている。だからこそ、マスクが標準化した今をもっと楽しんではどうか。マスク警察の出現など、コロナ禍では人と人がギスギスした話題が多すぎます。私たちの能力を生かして、もっとマスク生活をエンジョイしてはいかがでしょうか」

(新潮社 792円)

▽まさたか・のぶお 1954年大阪府生まれ。霊長類学・発達心理学者、評論家。大阪大学人間科学部行動学専攻卒、同大学院人間科学研究科博士課程修了。京都大学霊長類研究所教授を務め2020年に退官。「ケータイを持ったサル」「いじめとひきこもりの人類史」など著書多数。

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