「北里柴三郎 感染症と闘いつづけた男」上山明博著
1894(明治27)年、清国(現在の中国)南東部で原因不明の疫病が大流行。対岸の香港に飛び火した。症状はかつてパンデミックを起こした黒死病に酷似していた。香港領事館の要請を受けた明治政府は、黒死病調査委員会を立ち上げ、伝染病研究所所長の北里柴三郎を中心とする6人の研究者を香港に派遣した。
隔離病院には患者と死者があふれ、医療用手袋も消毒液も払底するなか、ニカワ状の物質を手に塗って皮膜をつくるなど代用品でしのいだ。死亡した患者から摘出した検体を、北里が顕微鏡で観察し、厳密な細菌検査を行った。そして謎の病気の原因を突き止めた。ペスト菌の発見である。
その後も数々の業績を残し「感染症の巨星」と称される北里柴三郎の足跡と人間像を、膨大な資料でたどった評伝ノンフィクションの労作。
阿蘇山麓の庄屋の家に生まれた北里は、親の勧めで医学校に入ったものの、医者になる気は毛頭なく、軍人志望だった。ある日、オランダで発明された顕微鏡をのぞく機会があり、見たこともない微生物が動き回るミクロの世界に驚愕する。以後、医学の勉強に身を入れ、東京医学校(現・東京大学医学部)に進んだ。
在学中に書いた「医道論」にはこうある。「人民に康法を説いて身体の大切さを知らせ、性命を病気から守り、病気を未然に防ぐのが医道の基本である」。若き正義感にあふれる主張は、北里の生涯を貫く信条となった。権威に抗し、時に冷遇もされたが、優れた後進を育て、日本の医療に多大な貢献をした。
コッホ、森鴎外、福沢諭吉、野口英世ら、多彩な人物との交流が描かれ、往時の医学界を舞台にした群像劇としても興味深く読める。
北里をはじめとする先人たちは、手探りしながら病原性微生物を発見し、治療法を研究し、闘ってきた。この闘いはこの先も続く。
(青土社 2860円)