「危機の神学『無関心というパンデミック』を超えて」若松英輔、山本芳久著/文春新書/2021年
カトリック神学は、物事の構造を大づかみにして、処方箋を提示することが得意だ。対してプロテスタント神学は鋭い切り口で問題提起するが、解決策はなかなか提示できない。本書はカトリック神学の立場からコロナ禍について考察した好著だ。
もっとも若松英輔氏(東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授)が文芸批評家の視点で神学について語るのに対して、山本芳久氏(東京大学大学院総合文化研究科教授)のアプローチはカトリック神学専門家特有のものだ。
山本氏は、<神学にはこのように、単に『聖書』の記述を整合的に理解するだけではなくて、現在起きている問題に対して発言していく、という側面があるわけです。神学者たちは、多かれ少なかれ、今起きている出来事、または歴史の中に神の意図を読み取ろうとしている。でも、そのときに気をつけなければならないのは、恣意的に読解することです>と強調する。
神学においては客観性や実証性よりも、人間の救済に役立つならば、恣意的に読解することの方が重要なのである。
山本氏はフランシスコ教皇が回勅で新約聖書の「善きサマリア人」のたとえに言及したことに注視する。
<つまり、善きサマリア人は、強盗に襲われて死にそうになっている人を見て、はらわたがよじれるほどに心を揺り動かされ、だからこそ助けた。そういう仕方で、この世界で起きている危機的な状況に心を揺り動かされることを通じて無関心から解放されていくというわけです。/先ほども言いましたが、無関心であるというのは、関心を持たれない人が苦しいだけではなく、無関心な人自身が、いわばこの世界を失ってしまっていて苦しい状態でもあるわけです>
現下の情勢において無関心であるということが最大の罪であるという認識をプロテスタント神学者でもある評者も完全に共有する。
「危機の神学」という言葉は現代プロテスタント神学の出発点を築いたカール・バルトたちの潮流を表す言葉だ。日本のプロテスタント神学者たちが居眠りをしているときに、若松氏、山本氏らカトリック神学に従事する人たちが目を覚ましていたことに敬意を表する。 ★★★(選者・佐藤優)
(2021年12月22日脱稿)