「『かもじや』のよしこちゃん」西舘好子著
東京の下町、浅草橋で生まれ育ったよしこちゃんは「かもじや」の娘。かもじとは、日本髪を結うときに、形よく整えるための補足品で、本物の髪の毛で作る。かもじ職人の父はおしゃれな江戸っ子で、イキのいい江戸弁を使った。
年を取っても、不思議と子どもの頃のことは覚えているものだ。戦争が終わったとき5歳だったよしこちゃんは、焼け跡から目覚ましい勢いで復興する下町のありさまをよく覚えていた。
小さな家はひんやりしていて暗い。祖母は毎朝、ぬか袋で階段を磨く。家の左隣は靴下屋で、右隣は小さな教会。空は青く、子どもには時間がたっぷりあった。路地や原っぱ、紙芝居、駄菓子屋、サーカス、チンドン屋。見るもの聞くもの、面白くて仕方がなかった。
30分も歩くと御徒町の闇市があった。そこはごった煮の鍋のような人のるつぼ。ギラギラした目の男、やけっぱちの女、生きるためにかっぱらいをする子どもたち。売春婦はみんなパーマネント髪で真っ赤なルージュ。派手な姿に度肝を抜かれたが、子どもたちには優しかった。
好奇心旺盛で、「私も行く!」とどこへでも父について歩いたよしこちゃんだが、大人には大人の事情があること、子どもにはわからない悲哀があることを感じ取ってもいた。
大人になったよしこちゃんは、作家の井上ひさしと結婚、劇団こまつ座を主宰することになる。
2011年4月、東日本大震災から1カ月後、支援物資を届けにいった被災地で、遠い記憶が蘇った。それは幼い日に見た東京下町の焼け跡の風景とにおいだった。それでも、記憶の中の子ども時代はキラキラしていた。大人たちに守られた幸せな時代だった。それを思い出すままにつづったのがこの本。人と人の距離が近かった昭和の下町の息づかいが聞こえてくる。でも、ただのノスタルジーではない。未来に向かって駆けていく子どもたちを応援したいとの思いにあふれている。
(藤原書店 2640円)