「一人飲みで生きていく」稲垣えみ子氏
「私が一人飲みを始めたのは40歳の頃ですが、50歳をすぎた今、一人飲み“修行”をしておいてよかったな、と心から思っているんです。仕事はフリーランスだし、世間的には何も持っていませんが、何の不安もない。それもこれも一人飲みを通じて、生きていくのに必要なものを知ったからなんです。もちろん、一人飲みができるようになるまでには、数々の失敗はしましたけどね(笑い)」
本書は、アフロ記者の呼び名で知られる著者による、一人飲みのススメ。一人飲みで人生が変わったという体験談とともに、一人飲みの極意12カ条も伝授する。
一人飲みと聞いて「いつもやってるよ」と思うなかれ。どこかの店に入り、ただ飲み食いするのではなく、本書が目指すのは、「男はつらいよ」の寅さんのように、初めての場所でも心地よく、さりげなく飲めてしまう、そんな飲み方である。
「寅さんに立派な肩書なんてないけど、その人間的な力で瞬時に居場所をつくってしまう。サラリーマンとして行き詰まっていたときにテレビで再放送を見て憧れ、同時に寅さんよりも“持っている”はずなのに不安だらけの私との差は一体、何なんだと考えたんです。で、それにはまず、一人飲み修行じゃないかと。でも怖くてなかなか行動に移せませんでした。一人飲みとはいわば一人で、丸腰で世界と正面から向き合うこと。どう振る舞ったらいいのか分からなかったんです」
かくしてドキドキの一人飲み突撃が始まった。旧知の主人がいる居酒屋でデビュー戦を飾り、なんとか成功。さらに店主から「一人飲みは人生が変わる、広がるよ」と背中を押され、スイッチが入った。
ところが、その後は失敗続き。立ち飲み屋で酒の飲み方をめぐって「そんなことも知らねぇのか」という態度を醸し出して周りから浮いてしまい、ある店では誰にも相手にされない。さりげなく隣の人に話しかけたのに、面倒くさそうにされたこともあった。軽妙なタッチでつづられる失敗エピソードは、はた目には笑い話だが、これを自分が体験すると想像したら、いたたまれない。
「たかが飲んで帰るだけなのに、寅さんのようになれない。あの頃の私は、自分の存在を発揮しなきゃと考えていたんですね。酒に詳しいとか何か長所があって初めて認められると勘違いしていた。でも、それが通用するのは実は競争社会だけ。居酒屋や家庭などは『競争しない社会』で、そこで大事なのは、周りがいいように行動できるかどうか。そのことがだんだんと分かってようやく道が開けました(笑い)」
■一人飲みを制するものは老後も制す
本書では「一人客用の席に座るべし」「食べた感想を伝えるべし」など、著者が汗と涙で掴み取った極意12カ条を惜しげもなく開陳しているが、中でもハズしてはいけないのが、店を静かに観察すること、スマホをいじらないことだという。
「あるとき、自主的に空気になろうと、深呼吸をし、自分の存在を消してみたら、不思議とリラックスできて周囲がよく見えたんですよ。すると、どう行動すれば皆が喜ぶのかまで、まるで一本の道のように分かって、ビックリしました。人を喜ばせることができれば、自分の居場所ができる。忍法のようで、人生がパーッと開けた瞬間でした」
一人飲みで培った「忍法」は、居酒屋以外でも有効。銭湯でも見知らぬ土地でも浮くことなく、楽しめる。だから、自分を大きく見せることは愚でしかない、と著者。
「一人飲みを通じて分かったのは、人生に本当に必要なのはお金ではなく、居場所だということです。人は居場所さえあれば生きていけます。その修行は一人飲みでできる。実は私が50歳で会社を辞められたのも、どこにいっても自分の力で居場所がつくれるという自信ができたからなんです。一人飲みを制する者は老後も制しますよ」
(朝日出版社 1694円)
▽いながき・えみこ 1965年、愛知県生まれ。一橋大学社会学部卒業後、朝日新聞社入社。大阪本社社会部、「週刊朝日」編集部などを経て論説委員、編集委員を務め、2016年に50歳で退社。著書に「魂の退社」「寂しい生活」「アフロ記者」など。「もうレシピ本はいらない」で第5回料理レシピ本大賞料理部門エッセイ賞を受賞。