「女優M子」吉川良著
2020年3月21日。宮城まり子永眠、93歳。それを知った吉川良は、静岡県掛川市の「ねむの木村」の方角にウイスキーをついだグラスを向けた。自分は83歳。人生、そろそろゲームセットか。心に残る人たちの記憶が蘇る。
前途が見えない20歳のとき、吉川は赤坂の一ツ木通りにあった酒場でバーテンダーをしていた。
ある夜、珍しく1人で現れた吉行淳之介とカウンターを挟んで向かい合っていると、奥のフロアが急に賑やかになった。客の野球選手たちが1000円札で作った紙ヒコーキを飛ばしている。それが女の体に当たるとチップになるらしい。吉川は、嫌悪感を払うように小さく首を振った。すると、吉行も真似をして首を振った。嫌悪感の共有がうれしかった。その後、小さな首振りが吉行と若いバーテンダーの挨拶がわりになった。
やがて物書きになった著者は、雑誌の取材で、78歳の宮城まり子に会った。若いときの1000円札紙ヒコーキの話をすると、「その話、わたし、聞いてる」と言い、「おもしろいことになったものね」と楽しそうだった。3人がつながった。
吉川の知人に、吉行しか読まないという少し変わった大工、ベンさんがいる。時々ベンさんと酒を飲みながら「女優M子研究会」なるものを催している。「女優M子」とは、画家になりたかったベンさんが唯一描いた絵のタイトル。吉行が惚れた女優M子について、M子が惚れた小説家吉行について、男2人、飽きずに語り合う。吉行の小説の一節を味わい、ねむの木学園の子どもたちの絵に感動し、学園の歴史をひもといて、M子の愛の大きさに圧倒される。
「なんぼ愛があったって、愛だけじゃできねえよなぁ」とベンさんが言う。宮城まり子の愛と、女優M子の芸が、この歴史をつくってきたのだろうと吉川は思う。
愛とは。優しさとは。人間とは。心の深いところに問いかけてくる感動作。
(集英社 1760円)