「最後の無頼派作家 梶山季之」大下英治著/さくら舎
「人物の心理だけを追っているような小説じゃ、駄目なんだ。その時代とか、社会を浮き彫りにしないといけない。読者に読んでいただく意味がない。それこそ大衆小説だ。自分ひとりでわかっているようなわからない小説を書いたって、駄目だ」
ベストセラーを連発して45歳で逝った梶山季之はこう力説したという。
著者の師でもある梶山が亡くなったのは1975年だが、なぜ、半世紀近く経ってからこの本が出ることになったのか。
著者は梶山夫人の美那江から「憧れの『梶山季之伝』を書くことを許され」、梶山が関係した女性のひとりの大久保まり子への取材も許された。しかし、できあがった原稿を夫人に見せると、「無理、活字にするのはやめて」と断られた。それで夫人が亡くなってからの出版となったのである。
ポルノ小説も書いて“ポルノ作家”のレッテルを貼られた梶山を、私は「経済小説の読み方」で、城山三郎と並ぶ経済小説のパイオニアと位置づけて、夫人に感謝された。
タブーを恐れず小説を書いた梶山は、たとえば「生贄」ではモデルとしたデヴィ夫人に訴えられている。背景には岸信介とスカルノが主役のインドネシア賠償汚職があったが、それも描いたために、その筋からの圧力が働いたともいわれた。
代表作の「黒の試走車」について城山と行った対談で梶山は、「企業間のスパイ的な行為はそんなに激しいんですか」と城山に問われ、こう答えている。
「たとえば、N社で新車を造ったときのことですが、非常に手口がうまくて発売日まで外部にはもらさなかったんです。競争相手のT社ではN社ですごい車をつくっているという情報をもとに八方手をつくしたあげく、N社系の興信所から、その新車の第一号を(発表前に)手に入れて、即日解体して調べたということもありましたよ」
「売れるのが大衆小説で、売れないのが純文学か」と梶山は皮肉ったともいわれるが、おカネの問題から逃げずに取り組んだ梶山の功績は大きい。その後を追って奮闘する著者の愛情あふれる追悼伝である。梶山の告別式の葬儀委員長は柴田錬三郎で、吉行淳之介や黒岩重吾が弔辞を読んだ。梶山は「注文をひとつとして断ることなく、書いて書いて書きまくった」。 ★★★(選者・佐高信)