ダイレクトシネマと呼ばれる記念碑的作品
バスタブのように大柄な車のトランクに商品を詰めこんで、広大な北米大陸を長々とドライブして売り歩く。現代でも巡回セールスマンは米社会で最もありふれた商売だ。
今週末封切りの「セールスマン」はドキュメンタリー映画史上の傑作だが、国内では初の劇場公開。A・ミラーの「セールスマンの死」と違って、こちらは4人の男が共に旅する。ときは1969年、彼らが売るのは聖書。シカゴを拠点に町々を回り、聖書や絵入りのキリスト物語の美装本を訪問販売するのである。
カメラは彼らと顧客に近づき、購入を迷う客に甘言と圧力と罪悪感を喚起して迫るさまを余さず捉える。聖書は食品のような必需品ではないが、時代はまだ60年代末。頭金10ドルも今の価値なら1万円を超える。ベトナム戦争の最盛期だが、アメリカとて庶民はつましさと慎みの中に暮らしていたのである。
実際、16ミリフィルムで撮られたモノクロ映像からあふれ出てくるのは、変化と停滞の入り交じる時代のはざまで見せる、途方に暮れたような人々の表情の言葉に尽くしがたい深みだろう。
監督はメイズルス兄弟。兄のアルバートが撮影、弟のデヴィッドは音声を担当し、「ダイレクトシネマ」と呼ばれる方法論を確立した。その記念碑的作品が本作だ。
聖書とセールスマンの組み合わせとは奇妙なようだが、アメリカでは預言者キリストこそ最高のセールスマンとするB・バートンの本がベストセラーになり、セールスマンくずれの伝道師の転落を描いてのちに映画化されたS・ルイスの小説「エルマー・ガントリー」も評判になった歴史がある。
だがどちらも訳書は絶版。ハヤカワ演劇文庫版のA・ミラーの戯曲「セールスマンの死」が電子書籍(早川書房 990円)でかろうじて読めるだけなのが寂しい。 〈生井英考〉