加害者両親と被害者両親の対話で描く銃乱射事件
演劇と映画は、俳優が物語を演じる点は同じでもほかは大きく違う。舞台劇を映画化すると微妙に違和感があるのもそのせいだ。では、映画でしか表せないものは何か。それを深くまで考えさせるのが今週末封切りの「対峙」である。
いまや、日常茶飯事になったアメリカのどこかの高校の銃乱射事件。映画は小さな町の教会に2組の夫婦がやってくるところから始まる。セリフから彼らが加害者と被害者、双方の少年の両親であることがわかる。どうやら事件から数年後にセラピストの勧めで面会に至ったらしい。映画ではそこから1時間以上も4人だけの会話が続くのである。
一般にアメリカ映画は「ムービー」という通り、動きのある被写体の描写を得意とする。ところがこの映画では4人の大人がほぼ座ったまま、心中に恨みや怒りや嘆きやわだかまりを抱え、互いの距離を探りながら、ぎこちなく言葉を交わす。
どれほど嘆いても死んだ息子は生き返らない。恨み言も言えば言うほどつらくなる。それでも言わずにおられず、言えばたちまち後悔する。
もしこれが舞台劇だったら、事件の多発する現実の生々しさと不整合を起こして嘘くさくなるだろう。しかし、この映画では4人の俳優がそれぞれ役柄に映画ならではの実在を与え、加害者と被害者、親と子、妻と夫といった関係まで含めてまさに“体現”する。
監督のフラン・クランツは40歳そこそこの俳優。これが初めての監督・脚本作という。設定から想像されるような社会派ドラマの、はるか上をゆく知性と感性と演出だ。
それにしても年々ひどくなるアメリカの銃犯罪の深刻さにはつくづく言葉を失う。スー・クレボルド著「息子が殺人犯になった」(仁木めぐみ訳 亜紀書房 2530円)はこの種の事件のはしりとなったコロンバイン高校銃乱射事件の「加害生徒の母」の手記である。 <生井英考>