下北沢LOFTではサザンのメンバーがアルバイトで働いていた
フォークの西荻窪ロフト(キャパ60人)、ロックの荻窪ロフト(キャパ100人)と2軒のライブ空間だけでは、何となく不満な気持ちがぬぐい切れなかった。勃興してきたロックの波に驚嘆しつつ、背中をグイッと押された感じか……。
全国から新しいロックバンドが、続々と東京にやって来た。もっとも、毎日ライブをやることへの経営的な危険を感じ、あくまでライブはウイークエンドだけに限定していた。昼間は「ロック喫茶」、ライブが終わって始発電車が動きだすまでは「ロック居酒屋」として営業して運転資金を稼いだ。たとえライブでお客さんが少なくても安定的に店を維持できた。
これこそが老舗ロフトの経営哲学だった。
1975年、渋谷の繁華街に「屋根裏」、コロムビアレコードが経営する「エッグマン」ができるという噂が流れた。
新宿には芸能音楽事務所経営の「ルイード」や「開拓地」が、ロックのライブをやり始めた。
JR中央線沿線で培ってきたロック的な音楽文化も新宿、渋谷、下北沢といったターミナル駅に吸い取られていきそうだった。「何とかロック文化の第1列を走り抜けたい!」。そんな思いから<荻窪ロフト>開店(74年)の翌年、小田急線と京王・井の頭線が交差する下北沢駅に<下北沢ロフト>(写真)の開店を計画した。オープンさせるのに大借金を背負うことになったが、高度成長期後のオイルショックも過ぎ、緊張感にあふれた政治の季節も終焉(しゅうえん)し、穏やかで明るい未来が自分を含めた若者に吹いているような気がして、あまり不安や恐れはなかった。