「節の後に落語をやるのはかなわん言うてね。志ん朝師匠もそうみたいでしたね」
私は志ん朝との2人会を見ているが、やりづらそうどころか、十八番の「火焔太鼓」を演じても受けなかった。つまり、客が幸枝若の節に酔った余韻に浸っているから、落語を受けつけないのだと思う。それほど節の力は強烈なのだ。
「初代は50までは侠客ものなど長講をやってましたが、50を過ぎると、比較的楽な左甚五郎ものばかりでしたね。晩年は気が弱ってきたのか、芸歴55周年記念公演をやる前、初めて我が家に電話がかかってきた。『手つどうてくれ』と言うんですわ。弟子が手伝うのは当たり前なのに。『ギャラやけど、5万でいいか』と。そんなこと言う人やないんです。おやっさん、俺に気を使うようになったかと。それから亡くなるまで、よく話すようになりました」
師弟としてだけでなく、親子として雪解けの時期を迎えたのか。しかし、60周年を前にして、初代は体を壊し入院した。
「毎日3時に病室へ行かなあかんのです。それは師匠の足を揉むため。病室にそば屋の出前を頼んで一緒に夕飯を食べて、9時ごろ帰る。そんな毎日でした」 =つづく