追悼・ジェリー藤尾さん “芸能界喧嘩最強伝説”の裏にあった周囲の「ハーフ差別」
家では、やはり周囲に冷遇され、馴染めずにいた母親が心労からアルコール依存症になり、ジェリーさんが中1のときに死去。それで歌舞伎町の繁華街に繰り出し、すさんだ生活を送るようになったという。その一方、高校時代からバンドボーイとして米軍キャンプを回ったりもしていて、新宿のジャズ喫茶で飛び入りで歌ったプレスリーの「ハウンド・ドッグ」が芸能界入りのきっかけ。58年に「水原弘とブルー・ソックス」のボーカルとなり、日劇ウエスタンカーニバルに初出演。61年に「悲しきインディアン」でデビューし、NHK「紅白歌合戦」に初出場を果たす。永六輔さんの作詞、中村八大さん作曲による「遠くへ行きたい」が大ヒットしたのは翌62年であった。
■最期は家族と
私生活では歌手の渡辺友子と64年に結婚、2女に恵まれるも86年に離婚した際は財産分与などで揉め、6度の離婚調停で「泥沼」とワイドショーに報じられた。不倫やらDV疑惑まで乱れ飛ぶスキャンダルであったが、時を経て、今年3月に仲直りしていた。そう発表した渡辺によると、和解の席で結婚指輪を互いに交換し、ジェリーさんは「友子、愛してるよ」と告げたという。以来、週に2回、結婚指輪を2人でつけ、次女宅で食事を共にしていたそうだ。