80~85年の沢田研二には、歌謡曲に限らずロックもニューミュージックも敵だった
そしてロック界に向けては「売れなくてもいいとか、ビジュアルに気を使いませんとか、テレビに出ないとか、そんな貧乏くさいこと言わずに、もっと派手にやろうぜ、売れようぜ」と突き付けていた。
つまりこの時期の沢田研二にとって、歌謡曲も敵だったけれど、ロックもニューミュージックも、実は敵だったのだ。このあたり、音楽性はまるで異なるものの、当時の桑田佳祐や忌野清志郎とも共通する部分だと言える。
そうした唯一無二のスタイルが、のちの音楽シーンに大きな影響を及ぼすこととなる。
渡辺プロダクションの後輩、吉川晃司や、強く影響を受けたことを公言するザ・イエロー・モンキーの吉井和哉あたりは、典型的かつ直接的な「沢田研二チルドレン」だが、もう少し引いてみれば、自作自演で、ビジュアルにも十分な気を使い、テレビを嫌がらず、むしろ十分に利用する音楽ジャンル──「Jポップ」全体が「沢田研二チルドレン」だったと、言えるのではないか。
そう「Jポップ」の「J」は「JULIE」の略だったのだ。 (つづく)