豊臣家を滅ぼしたとされる「梅毒」豊臣寄り武将が次々と…
もともとは1495年にイタリアのナポリに上陸したフランス軍・傭兵から発見され、欧米に広まりました。この傭兵らは新大陸発見のコロンブスの船の乗組員であったため、先住民の女性から感染して、欧米に持ち込んだとの説もありますがハッキリしていません。 日本では16世紀の終わり、秀吉による朝鮮出兵がきっかけとなって感染拡大が起きたと言われています。そのせいなのか、豊臣家に忠誠を誓った武将の多くは梅毒と思われる病気でなくなっています。
たとえば、加藤清正です。秀吉の子飼いの家臣で秀吉が亡くなった後に家康に接近し、関ヶ原の戦いでは東軍として戦いその功績で肥後一国並びに豊後の国の一部を賜りました。その清正は、家康と豊臣秀頼との間で行われた「二条城での会見」(1611年3月)を取り持つなど和解をあっせんしましたが、その3カ月後に亡くなりました。死因は梅毒と言われています。清正と共に二条城での会見を取り持ったとされる、浅野幸長(よしなが)もその2年後に梅毒で命を落としたと言われています。
また、家康の実の息子ながら豊臣家の養子になり、両家の間を取り持つ立場にあった結城秀康も亡くなりました。さらに、豊臣家が頼りとする大大名、前田利長も梅毒で死去したと言われています。