画家の田中茂さん 医師に「運転中に失神したら大事故になる」と言われ39歳で心臓ペースメーカー手術を決断
田中茂さん(画家/55歳)=神経調節性失神
病気の名前はいろいろ変遷があるのですが、39歳で心臓ペースメーカーを埋め込んだときには「神経調節性失神」という診断名でした。過度の痛みなどで血管に圧力がかかると血管の緊張を緩める副交感神経が働きすぎてしまい、血圧が急激に下がって失神してしまうのです。
思えば、小学生のときから朝礼や全校集会でよく失神していました。
最初に異常が見つかったのは中学の身体検査の心電図でした。病院では「完全房室ブロック」と診断されました。心臓の房室から心室に電気刺激が伝わらない病気です。診断されたその日から処方された薬を毎日飲み、体育の授業や部活(卓球部)は見学することになりました。
悲しかったですよ。「自分は不合格な人間なんだ」「死ぬまで運動はできないんだ」と悩み続けました。でも、そのうちこう考えるようになったのです。「この体は神様からの預かりもの。やりたいことをやれるだけやって、ダメになったら神様に返せばいいや」って。いつ死んでもいいように悔いのない生き方を意識するようになりました。
それで勝手に薬をやめて、主治医にも「もう薬は飲まないからいらない」と伝え、部活も体育も出ることにしました。相変わらず朝礼などでは倒れていましたが、それ以外は大きなトラブルなく高校に進学できました。
高校時代には太ももから心臓へカテーテルを入れて行う検査をしました。その時は「洞不全症候群」という、いわゆる不整脈を総称する診断名でした。
ときどき失神を起こす青年期ではありましたが、運動は普通にやっていました。思い出深いのは、夏休みに岐阜ー横浜間や岐阜ー九州間を自転車で旅したことです。計画段階で主治医に相談すると、「自殺行為だぞ」と言われましたが、折れませんでした。先生も渋々「1時間に1回、水分補給すること。苦しくなったらすぐ救急車を呼びなさい」という助言で送り出してくれました。その結果、無事に帰還。「やればできるじゃん」と自信を得ました。
その後も治療という治療は何もなく、薬もなし。ただ、24時間かけて心臓の動きを記録するホルター心電図を定期的に着けて経過観察していました。
父親のペンキ屋を継いで働き始めた後も、相変わらずよく失神していました。クレーマーの電話対応中だったり、厳しい大工の長い話を聞いている最中にもね。そのうえ痛みにも弱くて、どこかに体をぶつけたり、ちょっとケガして麻酔注射を打つだけでも失神しちゃうんです。