星野・野村の薫陶受け…矢野燿大「虎指揮官」までの凸凹道
「当時、阪神には野村監督の息子であるカツノリが在籍していた。野村監督は本心ではカツノリを使いたかった。矢野は『カツノリは投手に優しいのに、おまえは冷たいなあ』と言われたこともあった。しかしそれは、野村監督の言う『無視―称賛―非難』の『非難』。それだけ矢野を認めていたということ。野村監督は『(ヤクルト監督時代の)古田(敦也)もそうだったが、投手力が弱い中で戦うことでおまえは成長している』と叱咤したこともある。最終的に野村監督は、勝つために矢野を使った。矢野もこうしたボヤキにめげることなく、学ぶべきものは学ぶという前向きな姿勢で臨んだ。バッテリーミーティングでも、『自分はこう攻めたい』と積極的に意見した。『頭を使え。ヤマを張れ』と言われて打率3割をマークするなど打撃も開眼。野村時代の3年間で一皮むけた」
■「阪神で勉強せぇ!」
奇遇だったのは自分を「捨て駒」にした星野仙一監督が、02年から阪神監督に就任したことだ。
星野監督に対し、当初は「捨てられた」というわだかまりはあったが、正捕手として信頼され、03年と岡田監督時代の05年の2度のリーグ優勝では原動力となった。