欧州パンデミック宣言と中国人の“イタリア北部侵攻”を思う
仕事で遅くなって地下鉄と路面電車がなくなれば歩いて帰るしかない。そのたびにドゥオーモ広場を横目にしながらトボトボと歩いたものである。
当時のドゥオーモ広場は世界各国からの観光客が訪れ、韓国人やアフリカ系がプラダやグッチなどブランド品のコピーをズラリと並べ、観光客に売りつけていた。
大聖堂には無料で入れ、徒歩もしくはエレベーターで屋上に登ってミラノ市街を一望できた。ドゥオーモ広場から路面電車に乗り、数駅先にあるグラツィエ教会の有名な壁画も予約なしで手軽に見られた。
レオナルド・ダ・ビンチの「最後の晩餐」である。
1999年にイタリアを再訪した。ペルージャに移籍した中田英寿の現地情報を提供してくれるイタリア人通信員を探すのが目的だった。
ペルージャに行くにはローマ経由の方が近いが、当時は飛行機の便が悪く、ミラノは地理的な勘もあったのでミラノ経由を選んだことを思い出す。
ミラノから列車でペルージャを目指したが、ストライキに遭遇して経由地のフィレンツェで列車が足留めをくらい、結局ペルージャの数駅手前で列車は終電扱いとなってしまった。