白井貴子さん モントリオール金から30年、難民支援を継続
白井貴子さん(女子バレー/72年ミュンヘン五輪銀・76年モントリオール五輪金)
1976年モントリオール五輪女子バレーの金メダルに貢献した「日本の絶対的エース」が現役を引退したのは、日本中が歓喜に沸いた2年後のこと。現在、NPO法人バレーボール・モントリオール会理事として競技普及活動などをしている白井はしかし、その前に2度コートを離れている。
「最初は72年のミュンヘン五輪が終わってすぐ。絶対に金メダルが取れると思って決勝に臨み、ソ連(現ロシア)に接戦で負けた。20歳で燃え尽き症候群です。バレーがやりたくなくなった。会社(倉紡倉敷)も辞めました。その後、ミュンヘンのメンバーだった1つ年上の岡本(真理子=日立)さんから聞いていた話を思い出した。『海へ遊びに行った』とか『富士山に登った』とか。私のいた倉紡では考えられないこと。それに『日立は練習が少なくて強い』とも聞いていた。倉紡は練習量が多くて弱かったから、日立というチームは憧れでした。その頃は仕事もなかったし、取ってくれるかわからないけど岡本さんを介して、イチかバチかで日立の山田(重雄)監督に、相談があるからと電話をしたら、W杯予選をやっている前橋(群馬)にすぐ来いと。翌日に行ったらそこで入団の記者発表。びっくりです」
白井は当時、ユニチカ(大阪)入りも噂されていたが、関東の名門チームで現役に復帰。ところが、関西育ちで食事はなかなか口に合わず、言葉もきつく感じる。レシーブで拾いまくる関西の泥くさいバレーとは違い、日立はきれいな攻撃バレー。憧れていたチームのレベルも想像していたものとは違っていた。
「ミュンヘンはあれだけのメンバーで死ぬほど練習しても金メダルが取れなかった。だから山田監督に聞きましたよ、こういう性格ですから。『このチームでどうやって金メダルを取るのですか?』って。その時、21歳です。監督は言いました。『君が来たから金メダルだ』って。何言ってるんですか! ってなりますよ。そこから1年ぐらいストライキみたいなもんです。でも、一度引退しているから辞めるに辞められない。1回離婚している女の心境ですよ。岡本さんと山田監督にだまされたなあと思いましたね(笑い)」
■合宿所から朝逃げ
高校時代から、練習試合などでよく話をしていた岡本のおかげで日立に移籍したのだが、この2人はかつて全日本の合宿から夜逃げした仲でもある。ミュンヘン五輪前の夏のことだ。
「72年春から全日本の主体だったユニチカ貝塚の合宿所で生活していました。最初はヤシカの永野(比佐子)が夜逃げしようって言うから、岡本さんと3人で逃げようと決めたら、永野が当日の朝になって『やっぱり嫌だ』と言いだした。夜は警戒が厳しいけど、朝食が終わるとみんな緩む(笑い)。そう。朝逃げです。岡本さんはそういうタイプじゃないから私が先陣を切って逃げた。最寄り駅だと背が高いからバレー選手とすぐにバレる。隣の駅までタクシーで行き、とりあえず成功。数日後には岡本さんと合宿に戻ったのですが、それまで以上に厳しい練習をさせられました」
73年に日立で現役復帰したものの、山田監督とは1年近くも口を利かなかったという。だが、メキシコの世界選手権で反感を持っていた監督と和解。モントリオールでの金メダル取りを誓う。
■「これでバレーは終わり」
「メキシコの世界選手権はセッターの松田(紀子=日立)さんが練習試合で半月板の故障で緊急帰国。私は高山病とぎっくり腰。おまけに山田監督と大喧嘩ですよ。もう日本に帰るからパスポートを出してと。でも、監督に呼ばれていろんな話を聞かされたのです。日立が主体で銀メダルに終わったメキシコ五輪で山田監督は悔しい思いをした。おまえたちには、どうにか金メダルを取らせてあげたいと。感動しました。『よし、この人を男にしよう』みたいな気持ちになって、そこから発奮しました。ソ連との決勝前には山田監督から『白井は五輪の決勝を経験しているから、新人の金坂(克子)と矢野(広美)にアドバイスしてやってくれ』と言われました。2人は日立の主力です。金坂は松田さんの代わりのセッターですからね、緊張しますよ。この試合は勝つか負けるかは関係ない。大会が終わると全日本は一時解散する。日本リーグで優勝しないと山田監督は認められない。山田さんが全日本の監督にならないと私たちは全日本に選ばれるかわからない。日本リーグの小手調べみたいなもの。金坂に『悪いトスは私にあげて、いいトスは他に回しなさい。私はどんなトスでも決めるから』と。矢野は肝が据わっているから『大丈夫、大丈夫』という程度でした。私の助言が良かったのか、2人の頑張りもあって優勝できました」
2年後のモントリオール五輪は予選リーグから準決勝の韓国戦まで1セットも取られず、決勝のソ連戦も2セットを先取。3セット目も一方的な展開となり、最後は白井の金メダルポイントで雪辱を果たした。
「これでバレーは終わり」
そう決めていた白井だったが、自由の身にはなれなかった。