唯一の大学生だった小久保裕紀は物おじせずサザンを熱唱
■遠くに飛ばす大学2年生がいる
彼の存在を知ったのは、アマチュア野球を担当していたあるスポーツ新聞の記者との会話がきっかけだった。監督就任3年目の91年春、翌年の本番を見据えて本格的にチームづくりを進めていた。その中で欠けていたのが右打者の長距離砲だった。
全国の大学、社会人の大会を視察する中で、左の長打を打てる打者はいても、右打者となると、なかなか見当たらなかった。ある日、その記者との会話の中で、「学生の中で右が誰かいないかな」と尋ねると、「青学に遠くに飛ばす小久保という2年生がいる」と言う。1年時は投手としてデビューし、その後は野手に専念していた。私は早速、その記者と連れ立って、横浜市の綱島にあった青学大野球部のグラウンドに向かった。
東都リーグの春の公式戦開幕を直前に控えていた。当時の河原井正雄監督に挨拶をし、小久保を見たいとお願いすると、河原井監督は「実は昨日、左手を骨折したので、今日は練習を休んでいます」と言う。左手の有鉤骨を骨折していたのだ。結局、春は見ることができなかったが、秋には大学日本代表に選ばれるなど実力をつけていった。発展途上の段階ではあったが、他のアマ選手の中でもパワーに秀で、進歩しているのが目に見えて分かった。その年の12月、私は鴨川(千葉)での代表合宿に招集した。