小宮山悟さんは宴席でもブルペンでも救援陣を支えてくれた
小宮山さんといえば、どこかとっつきにくい、いかめしい印象を持っている人も少なくないでしょう。実際、横浜に移籍する直前、僕がロッテ入団1年目の1999年はそうでした。
当時はバリバリの先発投手。前年の98年はリーグ最多の10完投、201回3分の2を投げた鉄人です。新人だった僕には近寄りがたいイメージがありました。
それが横浜、メッツを経て2004年にロッテに戻ってきたときには、驚くほどフランクになっていたのです。
お酒は一滴も飲まないのに、無礼講タイムのようなお遊びにも付き合ってくれるし、一緒にふざけたり、時には僕らの愚痴に付き合ってくれることもありました。
その一方、ブルペンでは高木晃次さんと並んで、誰よりも頼りになる先輩でした。02年のメッツ時代にボビー・バレンタイン監督の指示で中継ぎに転向。特に日本一を達成した05年は小宮山さんと高木さんの支えがあったからこそ、僕ら救援陣も力を発揮できたと言っても過言ではありません。
この連載でも以前お話ししましたが、リリーフは役割によってブルペンに入る時間が違います。しかし、小宮山さんたちは試合開始直後からブルペンに入り、先発に何かあったときのために備えていてくれる。僕らが入るまで、ブルペンを守ってくれていました。それこそ敗戦処理のような役割を、嫌な顔ひとつせず引き受けてくれたのです。そんな大先輩の背中を見た投手陣が、奮起しないわけがない。
就任2年目の早稲田大学野球部を10季ぶりの優勝に導いたのも、小宮山さんの人柄と手腕があればこそ。小宮山さん、本当におめでとうございます。 (つづく)