水球・野呂美咲季 マイナー競技の覚悟「引退後は自力で」
ゴーグルに涙をためる毎日
「1年生の頃はレギュラーを取れなかったんです。加藤監督の指導を受けてきた秀明栄光高出身の選手たちは、監督ならではの“速い水球”に慣れていたけど、私は適応できず……。泳ぎも遅かったので、スイム練習ではキツさと悔しさから、いつも泳ぎながらゴーグルの中に涙をためていました。本当に毎日泣いていたんです」
最大の挫折は2年の冬だった。
「加藤監督が指揮を執るアジア大会のメンバー選考では同期8人、後輩3人のうち、私を含む3人だけが選ばれなかったことです。広いプールの中、取り残されたメンバーで練習したり、その大会運営の手伝いに行ったときは悔しさが込み上げました。今思えばこの挫折が自分を強くしたのかなと思います」
屈辱をバネに、身長158センチと小柄な体をカバーする自分だけの武器、瞬間的なスピードや、粘り強さを磨いた。
3年で日本代表に選ばれ、日の丸を背負い各国を転戦。一昨年に大学を卒業すると、同年に国体の主催地だった茨城県からオファーを受け、昨年いっぱいは茨城県競技力向上室に所属した。
「結局、国体は3位でした。自分たちにお金をかけてくれていたのに優勝することができず……。茨城県は『五輪が終わるまで面倒を見る』と言ってくれましたが、辞退しました。結果を出せなかった申し訳なさと、社会人として仕事をしないとな、という焦りもあった。合宿や遠征がない時期の練習時間は1日2時間半ほどです。残りはひたすら寝ているだけ(笑い)。新社会人として頑張る友達の話を聞くたび、ただ水球をしているだけでお金がもらえる生活に違和感が芽生えました」
水球が“マイナー競技”という認識もあった。
「サッカーや野球などと違い、水球で日本代表になって街を歩いていても、誰も気付いてくれません。引退後の人生は自分で切り開いていくしかない。社会の経験を積まねば、ということで今年1月から母校の千葉敬愛高で、事務職に就かせていただいています」
新しい仕事と競技を両立し、東京五輪に向け練習を重ねている。野呂は、来夏を機に引退するつもりだという。
「最盛期だった大学3、4年に比べると疲労の回復が遅く、体力にも限界を感じていて……。引退後の生活については考え中です(笑い)」
東京五輪では約10年間の集大成を披露する。
▽のろ・みさき 1996年4月12日、神奈川県生まれ。10歳から水球を始め、中学時代は競技から遠のいたが、千葉敬愛高への進学と同時期に再開。秀明大へ進み、卒業後は茨城県代表として国体を戦った。現在は千葉敬愛高で事務の仕事をしながら、秀明大水球クラブで汗を流している。