秦真司氏 前年秋から実戦なしで挑んだ苦い思い出【プロ野球OBが語る春のセンバツ】
秦真司氏(元ヤクルトなど)/鳴門(徳島)=1980年
前年秋、四国大会で優勝。明治神宮大会は優勝した東海大三(長野)に2-3で競り負けて準優勝。島田茂(元ロッテ)と秦真司の大型バッテリーは評判が高く、チーム打率は出場校中、最も高い.372。「うず潮打線」といわれ、センバツは優勝候補にも挙げられた。
「それがいけなかったんでしょうね」と秦氏がこう振り返る。
「前年秋の公式戦が終わってから1回戦の滝川戦(兵庫)まで、1試合も実戦を行わずに臨みました。今は3月上旬まで対外試合禁止のルールがありますが、当時もあったのかは定かではありません。あったとしても、普通は解禁になってから数試合はやってから甲子園に乗り込むでしょう。
あの時の鳴門は部員18人。ギリギリの人数だったため、紅白戦もできなかった。あるいは監督がケガ人を出さないため、あえて試合をやらなかったのか。相手が滝川に決まった時、秋の近畿大会8強校ということで、これは勝てるぞ、という雰囲気になった。優勝候補といわれ、油断が生じたのかもしれません。
ビデオを見るわけでも相手を研究するわけでもなく、何も情報がない状態で、まさに出たとこ勝負。まさかあんなにいい投手(石本貴昭=元近鉄など)がいるとは夢にも思わず0-1。わずか4安打の完封負けでした。何カ月も実戦から遠ざかっているんだから、140キロ台の直球なんて打てるはずがありません。実戦は大事だし、せめて相手の映像くらいは見たかった。イメージができますから。センバツは苦い思い出です。悔しくて悔しくて『絶対に夏に帰ってくる』と誓って甲子園を後にしました」