鹿島アントラーズ監督就任も「寝耳に水だった」
目標は高校教員になってサッカー部監督だったが…
千葉・市原緑高から順天堂大に進み、1989年に当時JSL(日本サッカーリーグ)2部所属のNTT関東(現大宮アルディージャ)に入団した。
「補欠合格でしたが、一般受験で順天堂大に入学しました。高校の教員になってサッカー部の監督を目標にしていたのですが、大学4年時の教員採用試験の願書受付期間を勘違いしてしまい……。試験を受けられなくなり、途方に暮れているとサッカー部の部長から『石井は教員志望だったので伝えなかったが、NTT関東サッカー部から欲しいと言われている』と聞かされ、入社させていただくことになりました」
その当時、1993年のJリーグ開幕を前に参画を目論む企業のサッカー部が、争うようにチーム強化を行っていた。石井監督は、鹿島アントラーズの前身・住友金属工業蹴球部に引き抜かれた。24歳の時だった。
■ジーコのパスにはメッセージ性があった
「1991年にNTT関東を退職し、住友金属とプロ契約を交わしました。まだ(契約先は)鹿島アントラーズではありませんでしたね。プロになるには『このタイミングしかない』と思い切ってチャレンジしたわけですが、当時はJSL1部でJリーグ未参入を表明していた本田技研から、多くの主力が住金に移籍してきました。厳しいレギュラー争いでピリピリとした雰囲気の中、一生懸命に頑張った上で『通用しなかったら引退して教員を目指そう』と思っていました」
「そうそう、1991年の5月に住金入りしたのですが、ちょうどジーコが同時期に入団してきたんですよね。ジーコのパスからは<ワンタッチで(シュートを)打ちなさい><そのままキープしなさい><トラップして展開しなさい>といった意図が感じられました。パスにメッセージ性があることを知り、驚いたことが思い出されます」
J元年の1993年から3シーズン、鹿島で主軸を張って1998年にJ福岡に移籍。シーズン終了後に現役を引退した。