外様から地元へ…若生正広が切り開いた、宮城の野球の「新たな可能性」
ダルビッシュを勧誘したのは全国で50番目だったという。なぜ東北高を選んだのか尋ねると、「なぜ?」と遠く泉ケ岳に輝く斑雪に目をやった。
「お父さんがね、ここは水と空気がいいって、うれしいよね」
と人の肩を叩くのだった。
指導は厳しかったが、涙もろく、最後はほっこり笑う東北人だ。竹田が敷いたレールを機関車トーマスのように、しかし、したたかに走り、春夏7度の甲子園出場を果たし、03年にはダルビッシュと決勝まで進んだ。
竹田から若生へ、外様から地元へ──白河以北を牽引した宮城の野球は、この継走を経て自分たちの呼吸を始め、東北に新たな可能性を示したのではないか。だから、仙台育英の快挙は、春の枝頭のふくらみのごとく北の人々の心を和ませたのだ。=おわり