森保Jの絶対的守護神・権田修一“強靱メンタル”の原風景 「プロGK育成の名人」に聞いた
正月にシュマイケルのビデオを観賞
──正月に教え子が浅野コーチの自宅に集まっていた。
「2008年からですね。新年2日にFC東京時代の教え子が10人以上来て、食事をして泊まって3日に初蹴りにいくというスケジュールを勝手に組まれていました。デンマークの名GKシュマイケルのビデオを見るのが恒例でした。もうやっていませんが、権田も来ていましたよ」
──順風満帆だった?
「14歳から年代別の代表に選ばれて、17歳でトップに上がった時は、土肥洋一選手がいて、さらに塩田仁史選手もいた。早い段階でトップ選手との差を感じられたことが良かったのかもしれない。後に正GKの座を射止めて10年からフル代表に招集された。まずまず順調だったと思います」
──とはいえ、10年にフル代表に初招集されてからも第3GKの時代が長かった。
「14年ブラジルW杯の時は第3GKでしたけれど、正GKの川島永嗣選手と技術は同レベルでも、心と体がまだ追い付いていなかったと思います」
──どんな性格?
「14年のW杯後のこと。私がFC東京を離れてしばらく経ってから、労働組合の仕事で権田にインタビューをする機会があって小平の練習場に行ったんです。すると、全体練習が終わった後に立ち膝の正面キャッチの練習を繰り返していた。W杯から帰って来てずっとやっているというから、権田に聞くと、『体格は勝てないけど、キャッチングとキックは勝てると思いました』と。代表では控えが続きましたが、ずっと牙を研いでいたんです」
──日本代表で第4GKに甘んじた時代もあって、15年にオーバートレーニング症候群を発症した。
「あの頃はあまり連絡をしないようにしていました」