マラソン日本を先導した寺沢徹さんを偲ぶ…あの「クラレ」の社名の由来となった昭和の顔
マイカー時代到来で日曜に休めなくなり、倉敷レイヨン(現クラレ)に転職すると給料が下がった。給料はすべて家に入れていたから親に文句を言われたそうだ。マラソン転向は転職後で、シャツの胸に「倉敷レイヨン」と書いた。当時は繊維会社が多く、東洋レーヨンなどと紛らわしいので勝手に「クラレ」にした。現社名の由来はマラソンの寺沢徹であると書かれた社史をうれしそうに見せてくれた。
62年に陸連のニュージーランド合宿に参加し、リディアードのトレーニングを目の当たりにし覚醒した。
翌年の別大マラソンで当時の世界最高(2時間15分15秒8)をマーク。64年の東京五輪で惨敗すると、1カ月半後の福岡国際、その2カ月後の別大で立て続けに記録更新。30歳を理由にボストン遠征から外された65年、監督として参加したロンドンで自己ベスト(2時間13分41秒)で2位に入った。この大会でアベベの世界記録を塗り替えて優勝したのは重松森雄だった。
別大で4度優勝。先頭を駆けた角刈り、礼装用の白い手袋がおしゃれだった。社宅があった甲子園近くに暮らして晩年まで武庫川の河川敷を走ったが、甲子園取材の折に連絡すると、開襟シャツをなびかせ自転車を走らせてきた。あの夏の姿が懐かしい。マイカー、モノクロ写真の白い手袋……昭和の顔がまた一つ消えた。