PL学園 堅守の裏に名ノッカーあり…河野有道コーチはとにかく寡黙。無言がかえって怖かった
「腕は振るのではない。投げる方向に腕を伸ばすようなイメージで投げると、伸びるボールがいくし、方向も安定する。より正確なスローイングができるようになる」
中村監督の指導はいつも具体的だった。
「まずは守りから」というPL学園の方針のもと、中村監督の後に監督に就任することになる河野有道コーチ(当時)に守備面を鍛えられた。
直接的な指導は中村監督だったが、河野コーチはノックのスペシャリスト。狙った所に打つことができた。1歩目が速ければ捕れる所、横っ跳びすれば、数十センチ先を抜けるような、捕れるか捕れないかギリギリの所に打つのは当たり前。スライスやドライブする外野への飛球も自在に打てた。普通、ノッカーは「もっといけー」とか「捕れるやろー」とか声をかけながら打つものだが、河野コーチはとにかく寡黙。たまに笑みを浮かべることはあっても、ほぼ無言で、これがかえって怖かった。PL学園の守備力の高さの裏に名ノッカーの存在があった。
河野コーチは1980年からコーチとして中村監督を支え、98年に監督に就任。同年センバツ4強を最後に勇退した中村監督からチームを引き継ぐと、同年夏は甲子園8強。準々決勝では、エース松坂大輔(西武)を擁した横浜(神奈川)と延長十七回の熱闘を繰り広げた。2001年に部内で暴力事件が起こり、河野監督が退任。半年間の対外試合禁止処分を下された後、代わってPL学園の監督に就任したのが、当時27歳という若さの僕の同級生だった。