「西成山王ホテル」黒岩重吾著
「西成山王」という場所を口にしたり目にしたりして、「にやり」とするご仁あるいは逆に顔をしかめる人は、多分「飛田新地」を思い浮かべたからだろう。
この本は1965年の単行本の文庫化であるが、ジュンク堂書店大阪本店では今、10面展開で平積みされている。それほど大阪人にとって西成山王=飛田新地は地元で知られた「悪所」だ。
1957年に売春防止法が施行されて1カ月、「全国で最も強行に売春防止法に反対していた」と黒岩が書く飛田新地の遊郭「桃花楼」は、「さあ、これからは自由恋愛や、客と寝よと寝まいと、お前たちの勝手にしたらええね(略)店は飲み代と部屋の貸し賃として、30分で800円貰う、これからはお前たちの稼ぎ多うなるで」(「朝のない夜」)というやり方で復活する。
「普通の社会でネクタイをしめて暮らし」ていたサラリーマンが転落して西成山王町に住む。「なぜならここでは、友人に会う気遣いもなく、虚栄や名誉欲にわずらわされることもなく、のんびり生活できるからである」。(「雲の香り」)
「この辺りには、毎日ぶらぶら遊び、休養することが、最上の生き方だと思っている人間が余りにも多すぎる」
「酔っている者は酔い痴れているし、酔っていない者は疲れ切っている」と黒岩は記している。そんな街が西成山王だ。
5つの短編には、先に書いた飛田新地の特殊料飲店、私娼窟、アルサロ、組事務所、百円旅館、一杯飲み屋……という普通の繁華街とはちょっと違った舞台で、プロの娼婦、客と寝る仲居、ヒモ、ぽん引き、サンドイッチマン、ちんどん屋、ヤクザの親分の娘……というちょっと変わった生業の人物が登場し、悲劇を巻き起こす。
ほとんどが男女関係、とりわけ肉欲についての話を黒岩は描写していくのだが、底に流れるいとおしい恋愛感情の純粋さが、せめてもの「救い」として読み取れる。(筑摩書房 820円+税)