「ある男」平野啓一郎著
九州・宮崎の小さな田舎町で文房具屋を営む里枝には、つらい過去があった。2歳の次男を脳腫瘍で失い、それが原因で夫とも離婚。長男を連れて、故郷に戻っていた。
そんな里枝の前に、時折、スケッチブックと絵の具を買いに現れる男がいた。谷口大祐。林業に従事する作業員だった。寡黙で孤独の影があるが、純粋で素直な絵を描く大祐と、心に傷を抱えた里枝は引かれ合い、結婚する。そして女の子が生まれ、家族4人、つましいが幸せな家族を築いていった。
ところが、作業中の事故で、大祐は突然、命を落としてしまう。悲嘆にくれながら1年が過ぎ、絶縁したと聞かされていた大祐の実家に、その死を知らせたところ、信じられない事実が判明する。夫は谷口大祐ではなかった。
では、彼は誰なのか。里枝は離婚裁判で世話になった弁護士、城戸章良を頼り、助けを求めた。ここまでが物語の発端。
里枝の依頼を受けた城戸は、職業的関心を超えて、「ある男」捜しにのめり込んでいく。調査の過程で、自分の過去を上書きして別の人生を生きる男たちの存在を知った。
嘘の上に築かれた愛は、本物ではないのか? 一体、愛に過去は必要なのだろうか?
思索を深めていく城戸とともに、読者もまた自分の存在を見つめ直すことになる。根源的な問いをはらんだ文学作品。
(文藝春秋 1600円+税)