「現地嫌いなフィールド言語学者、かく語りき。」吉岡乾著
“フィールドワーク”という言葉には、なんとはなしにロマンチックな響きがある。見知らぬ地に入り込み、現地の人びとに接してその独自の文化を観察し分析する……。
しかし、実際の現場はそんな甘いものではない。「コンビニもなければ高速通信回線もなく、駐輪場もなければ自動販売機もない」し、現地のインフォーマント(情報提供者)のいい加減さにうんざりしたり……と愚痴をこぼすのは、フィールド言語学者であるこの本の著者だ。
無論、そうした状況をうまく受け入れる人もいるのだろうが、著者は、調査に行く際には出発前から早く家に帰りたいと思ってしまう。本書は、そんな「現地嫌いな」言語学者のフィールドワーク苦心談を交えたユニークな研究記録。
著者が専門とするのは、パキスタンとインド北部の話者人口の少ない7つの言語。つまり、紛争の絶えないカシミール地方が主なフィールドになる。当然のことながら危険も伴う。そんなこんなで著者の苦労と愚痴は止まらないのだが、外野としては、めったに見られないフィールド研究者の舞台裏をのぞいているようで実に面白い。とはいえ、れっきとした言語学の本。言語学の基礎や、7つの言語の特徴などもわかりやすく書かれている。たとえば、山間部に住む人にとっての方角は、「○○谷の向こう」「△△川の下流」という表現で事足りるので、東西南北を表す単語がないといった興味深い話も出てくる。
著者には「なくなりそうな世界のことば」という著書があるが、著者の調査対象である7つの言語のうち6つは文字を持たず、文字を持たないがゆえの言語土壌の貧弱化による消滅の危機にさらされてもいる。調査のしんどさに文句を垂れつつも、消えゆく言語への哀惜が透けて見えてくる。
<狸>
(創元社 1800円+税)