「新聞記者・桐生悠々忖度ニッポンを『嗤う』」黒崎正己著/現代書館
「だから、言ったではないか、疾くに軍部の盲動を戒めなければ、その害の及ぶところ実に測り知るべからざるものがあると」
関東防空大演習を嗤って「信濃毎日新聞」を追われ、個人誌「他山の石」を発行していた桐生悠々は二・二六事件が起こった直後にこう書いた。
鎌田慧や落合恵子らと共に私も選考委員となっている「むのたけじ地域・民衆ジャーナリズム賞」というのがある。その第1回大賞に選ばれた北陸朝日放送のテレビ報道番組のこれは書籍化である。
1933年の関東防空大演習から84年後の2017年に石川県輪島市ほかで「弾道ミサイルを想定した住民避難訓練」が実施された。
それについて、在郷軍人会を研究してきた須崎愼一はこう指摘する。
「防空演習というのは空襲の恐怖を煽って国民を動員するための道具なんです。日中全面戦争が始まった後も『中国が空襲してくるぞ』という話をばらまくんですよ、軍は。ところが戦争に対する国民の支持が高まってくると、そういう煽動はしなくなる。安倍政権が実施した北朝鮮ミサイルの避難訓練と非常によく似ているんですけど、危ないぞ、危ないぞ、と動員する」
桐生悠々の生きた時代を振り返ってショックだったのは、軍備縮小に賛成していた「朝日新聞」などが、関東軍の謀略で満州事変が勃発するや、1カ月余で軍縮などどこかへ吹き飛ばして戦況報道一色になったことだった。戦場の写真をふんだんに載せた号外を発行しただけでなく、新聞社として軍へ寄付金を贈り、読者の慰問金も募集して連日、寄付者の氏名を掲載している。
こうなると、異常が通常となる。
1941年には「爆弾位は手で受けよ」という歌まで発売された。「いざという時ゃ体当たり ソレ! 爆弾ぐらいは手で受けよ」の作者は藤田まさとだった。
軍部を批判した悠々の家族も弾圧や嫌がらせを受けた。悠々の妻の寿々は、「桐生だからやらん」と食料品の配給を拒否されたり、窃盗の濡れ衣を着せられたりもした。
もちろん、寿々も負けてはいない。
しかし、悠々の三男の知男は軍隊に入って、悠々の息子というだけで理由もなく殴られたという。第7章には、「東京新聞」の望月衣塑子も登場するが、屈せざる記録は、やはり読者を勇気づける。 ★★半