1961年、岐阜県生まれ。2009年「さよならドビュッシー」で「このミステリーがすごい!」大賞を受賞しデビュー。本作は「切り裂きジャックの告白」「七色の毒」「ハーメルンの誘拐魔」「ドクター・デスの遺産」「カインの傲慢 」に続く、シリーズ第6弾。
<9>遺体の右腕に赤い注射痕が
通報してきた少女は長山亜以子と名乗り、住所もちゃんと申告していた。台東区谷中三丁目〇―〇。元来、谷中は神社仏閣が建ち並び下町情緒の残る地域だが、昨今は懐古趣味の復興で商店街が賑わいを取り戻している。それに伴って新住民が流入し、この界隈は新旧の住宅が混在している。
長山宅はこの一角にあった。捜査員が到着した時には、既に消防庁のハイメディックが横付けされていた。してみると、死体はまだ家にあるようだ。
下谷署地域課の正垣が家の中に入ると、娘の亜以子が母親の遺体を守るようにベッドの前に立っていた。困惑気味に対峙しているのは父親の富秋だった。駆けつけた救急隊員たちはその場で瑞穂の心肺停止を確認していた。
「遺体の右腕に注射痕があります」
救急隊員が示す部位には正垣にもそれと分かる赤い点がついていた。亜以子の証言によれば医師の訪問予定はないので、医師以外の医療行為があったとすれば医師法違反に該当する。
「蘇生を試みましたが駄目でした。このまま病院に搬送するか、事件として扱うかはそちらの判断ですよね」
事件の可能性を嗅ぎ取った正垣は直ちに下谷署の強行犯係と鑑識、そして機動捜査隊(機捜)に連絡した。
程なくして強行犯係の捜査員たちが到着し、亜以子と富秋から事情を聴取する。彼らに同行してきた庶務担当管理官は救急隊員に詳細を尋ねる。
「簡易的な検査をしましたが、血中のカリウム濃度は15・5mEq/Lと異常値を示しています」
「正常値というのはどのくらいなのですか」
「個人差もありますが3・5~5・0mEq/Lですね」
先の安楽死事件で、犯人が患者に対して塩化カリウム製剤を投与した手口は捜査資料で関係者に知れ渡っている。血中の異常に高いカリウム濃度は、その証左と言っていい。
「お母さんの話ではヘルパーさんが来るはずだったから玄関は施錠しなかったんです。でも、〈ひまわりナーシング〉に確認したら、今日の訪問予定は聞いていないって」
亜以子の訴えに、富秋の状況説明が加わる。
「契約内容の変更で必要と言われ、妻の頼みで現金二百万円を引き出しておいたんです。しかし娘が帰宅してみると、ベッドの傍らに置いておいたはずの現金が袋ごとなくなっているんです」
従前の事件では、犯人が安楽死の報酬として金銭を受領したことも明らかになっている。遺体の状態と犯行態様はまさに瓜二つだった。
この時点で庶務担当管理官は事件性ありと判断し、警視庁捜査一課に出動を要請した。それは解決したはずの安楽死事件が第二幕を迎えた瞬間でもあった。
(つづく)