「心淋し川」西條奈加著
人情小説に善意あふれる人間が多く登場するのは、社会の底辺で生きる人々がみな、善人ばかりという理由ではけっしてない。そうして助け合わなければやっていけないからである。そういう悲しく、厳しい現実を背景に、人情小説は成立している。
たとえば本書は、根津権現の裏手、千駄木町にある長屋を舞台にした連作集だが、その差配の茂十は、それが彼の仕事とはいえ、なぜ親切なのか。それが明らかになるのが、巻末に収録されている「灰の男」だ。この最後の短編には、そこまでの短編に出てきた人物が総登場して、それぞれのその後の人生の行方を描いているが、ここで初めて茂十のドラマが明らかになる。
茂十の本名が、久米茂左衛門であること。町奉行所同心の家に生まれ、八丁堀で育ったこと。その男がなぜ、吹きだまりのような、どぶ川沿いの長屋の差配をしているのか。その理由をここに書いてしまうと読書の興をそぐことになるので、ここでは明らかにしないけれど、彼もまた淋しさとむなしさを抱えた男であったのである。その心のよどみが、長屋の住人たちへの接し方につながっていたことを私たちもここで知るのだ。
仏像を彫ることを喜びにする女性を描く「閨仏」、若い紋上絵師との恋を描く表題作なども印象に残るが、表題作のヒロインのその後は、最後の一編「灰の男」でさりげなく描かれている。
(集英社 1600円+税)