「黒い手帳」久生十蘭著 日下三蔵編
推理小説、現代小説、ユーモア小説、秘境冒険小説、時代小説と、幅広いジャンルの作品を書く作家は少なくないが、発表後80年以上たってもまだ面白いという作家は、残念ながら少ない。エンターテインメントは常に時代と寄り添うものであるから、それは致し方ない。それはエンターテインメントの宿命といってもいい。
ところが中には例外があって、その一人が久生十蘭。たとえばこの作品集の表題作は、「新青年」昭和12年1月号に掲載された短編である。なんと85年前に書かれた作品だ。ルーレットの研究をする男がいて、その成果を書き留めた黒い手帳をめぐる話だが、私がこれを初めて読んだのは50年前。そのとき一度しか読んでないのに印象に残った短編で、懐かしさのあまり今回、久々に文庫刊行を機に再読。いまでも面白いとは驚きだ。
しかし今回、それ以上に興味深く読んだのは「海豹島」。樺太の東海岸、オホーツク海に浮かぶ絶海の孤島を舞台にした短編だ。ここは、世界に3つしかないオットセイの繁殖場(あとの2つは、米領ブリビロッツ群島と露領コマンドルスキー群島)で、そのオットセイの生態だけでも興味深いというのに、この島を舞台にきわめて異色の物語が始まっていくのだ。すこぶるヘンな話なので、同好の士にはおすすめの一編である。
この短編集を読んでいたら、波瀾万丈の大長編「魔都」を再読したくなってきた。
(光文社 1100円)