「中野好夫論」岡村俊明著
「中野好夫論」岡村俊明著
かつて、岩波書店のPR誌「図書」に淮陰生の「一月一話」という1ページコラムがあった。漢字論者とカナ論者の論争、小股の切れ上がったの「小股」は何か、はたまた復帰直後の沖縄について等々、毎号博覧強記かつ風刺とウイットに富んだ文章が載っていた。
この淮陰生の正体が中野好夫だと知ったとき、大きくうなずいた。英米文学研究者にして東大教授、翻訳家、エッセイスト、伝記作家、文学・文化評論家、社会評論家、さまざまな平和運動・市民運動の世話役……と八面六臂の活動をなした知識人たる中野ならではのコラムだった。
本書は、そうした多分野にまたがって活躍した中野を「全き人」と呼び、明治・大正・昭和の3代を生きた中野の事跡をたどったもの。著者はまず、どちらかといえば破格の英文学研究者であった中野がなぜ東大の教授になったのかを探り、ついで当時のアカデミズムでは異端とされたジャーナリズムへの接近をなぜ中野が図ったのかの理由に及ぶ。
また、戦後いち早く自らの戦争責任を懺悔した中野の国家観・天皇観の変転を見ていく。英米文学研究の分野では「シェイクスピアの面白さ」ほか、伝記作品からは「アラビアのロレンス」「スウィフト考」「蘆花徳冨健次郎」、翻訳では「ヴェニスの商人」などのシェークスピア作品とギボンの「ローマ帝国衰亡史」、社会活動については、反核運動、憲法論、沖縄問題などについて詳細に語られていく。
それぞれの作品や運動に関しての中野自身の文章がふんだんに引かれ、中野を知らない未読の読者でも、それぞれの作品の概要や中野の戦後日本社会への対し方、考え方がよく伝わってくる。歴史の忘却が加速し、改憲論が俎上に載り始めている現在、ひたすら事実を究めた論議を中心に据え、「歴史に学ぶ」ことを繰り返し語り続けてきた中野好夫の言葉に耳を傾けることは、なによりも必要であるに違いない。 <狸>
(法政大学出版局 5170円)