加来耕三(歴史家・作家)
1月×日 三重県伊賀市で、忍者にまつわる講演を行った。
日本人には思い込みの強い人が多く、「忍者」という単語は、戦後に定着したもので、中世に使われた「忍(しの)び」が江戸時代に「忍びの者」という表現を持ち、真ん中を詰めて「忍者」となった、と説明すると、ときに驚かれることがある。
むろん、あの定番の黒装束もウソ。鼻と口をふさいだ面(おもて)では、息もできない。得意の手裏剣も、ほとんど使用されたことはなく、空中でのとんぼ返りも、やる意味がない。
伊賀忍者研究会編著「完本 忍者の教科書」(山田雄司監修 笠間書院 1650円)でも、忍びは情報収集と敵陣をかき乱すことが主な任務であり、と言及している。さらに彼らは、鉄砲・火薬の知識と技能に優れていた。
同様に12月の風物詩“忠臣蔵”のモデル=赤穂(あこう)浪士もいただけない。
辞書によっては“義士”などとするものもあるが、とんでもない。
赤穂藩主・浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)が、江戸城本丸の松之廊下で、高家肝煎(こうけきもいり)の吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)に突然、斬りつけたことと、旧藩士の大石内蔵助良雄(おおいしくらのすけよしたか)以下46人が吉良邸を襲撃して、上野介以下を殺傷したのは史実だが、それ以外はすべて、創り話=忠臣蔵の世界であった。
吉良邸縁(ゆかり)の花岳寺(かがくじ)の住職であり、吉良町史編纂委員長をつとめられた鈴木悦道(すずきえつどう)著「新版 吉良上野介」(中日新聞社 絶版)を読み返した。資料にあらわれる上野介は、領民思いの名君であり、赤穂浪士に本来、殺されるべき何ほどの理由も持たなかったことが、切々と語られている。
筆者(わたし)は上野介こそ、日本史上最大の風評被害者であると思ってきた。思い込みを横に置き、冷静に考えれば、赤穂浪士は主君内匠頭のためではなく、自分たちの一分立(いちぶんだて=面目)のために、討ち入ったことが知れる。
史実は、事切れた上野介(62歳)の死体の首を、テロリストが刎(は)ねたのが真相であった。彼らは討ち入った翌年=元禄(げんろく)16年(1704)2月4日に切腹となった。