アベベは俺に「金持ちになると人は変わる」を教えてくれた
そして「実(俺の本名)、これから五輪のマラソンが始まるから、ここに座ってテレビを見なさい!!」と父親の隣に正座させられたのだった。不思議なことに日頃、家にいる時にはステテコにランニング姿の父親なのに、その日はズボンをはき、開襟シャツを着ていたのだった。
細い木の脚に支えられた白黒テレビの上には白いレース編みが敷かれ、その上にはガラスの丸い金魚鉢が置かれ、中には夜祭りで持ち帰った金魚が2、3匹ゆらゆらと泳いでいた……。
画質の悪い白黒テレビの画面には、今まさにスタートしようとしている東京五輪男子マラソンの中継が映っていた。父親はこれまた普段よりも低くゆっくりとした口調で「これから、マラソンという長い距離を走る競走が始まるんだ。それで実によく見てもらいたいのはエチオピアのアベベという選手だ! この人は前に五輪で金メダルを取っているんだ。でも、すごいのはそれだけじゃないんだ!! アベベは貧乏でクツが買えなくて裸足で長い距離を走って金メダルを取ったんだぞ!!」。
父親はまるで自分の一言一言に感動すら覚えるような、静かだが、熱の入った説明を幼い俺に向かってしゃべるのであった。その父親の言葉に5歳の俺であったが、裸足のアベベの話を通して父親が「貧しくても努力すれば人間は立派になれる!」ということを教えようとしているのだろうな……と。テレビの前にそんな親子の張り詰めた空気が流れる中、64年東京五輪の男子マラソンはスタートした!! テレビの実況は金メダリストのアベベの名を何度も絶叫し、画面はアベベの走りを大きく映していた。次の瞬間、父親の口から「あっ!?」という空気の漏れたような声が発せられた……父親の視線の先の画面にはクツを履いて走るアベベの姿がハッキリと映っていた……。
「金持ちになると人間は変わる」
これが前回の東京五輪の俺の思い出である……。