中森明菜の“過去の男”たちが阻む「紅白出場」…権利関係や体調だけでない復帰への障害
82年に「スローモーション」で歌手デビュー。日本レコード大賞グランプリを2度受賞してトップアイドルの座に昇りつめた。明菜がつまずいたいたのは、89年7月。当時、恋人だった近藤真彦(58)と痴話喧嘩の末に、近藤の自宅で自殺を図ったのだ。
明菜が所属していた大手芸能プロダクション「研音」の当時の社長は、筆者にこう語っていた。
「明菜の自殺未遂は初めてではなかったので、またかと思い慌てずに病院に向かったら、すでにメリー喜多川さんがいました。明菜にさまざまな情報を吹き込んでいたようです。明菜は退院後、独立。娘が家が嫌で家出したんだから仕方ないと思いました」
同年、研音から独立した明菜は、大晦日に都内のホテルで記者会見を行った。当時、明菜本人は近藤との婚約会見だと思ったといわれていたが、実際は新事務所設立の発表会見だった。
「新事務所は1年足らずで解散状態。〝明菜利権〟に怪しい音楽関係者が群がって、明菜を食い物にしていったんです。そんなとき、相談相手になっていたのが、飲食店勤務のB氏。明菜は『お兄ちゃん』と呼んで慕っていましたが、その後交際に発展。93年に事務所を設立したときにB氏が副社長になってマネジメントを担当した」と話すB氏と親しい芸能関係者は、こう続ける。