『敵』夢と妄想に取り憑かれた男の敵は…妻の「呪縛」か?
儀助は恐妻家だったのか?
ではなぜ彼はこうした淫靡な夢と妄想から逃れられないのか。筆者は儀助の亡き妻が彼を追いつめているのだと考える。
妄想として再三登場する妻は嫉妬深い性格だったようで、「私が死んでも他の人と結婚しないで」と釘を刺す。食卓で鍋を囲む場面では靖子を指さし、「あなた。この人を思い浮かべて射精したんでしょ」と儀助を問い詰める。
儀助は以前から妻に頭が上がらず、言いなりだったのだろう。それは食事の準備をする場面で妻の指示に従う姿からも想像できる。従順、いや恐妻家なのかもしれない。
つまりは妻に逆らうことができない性格だ。夫婦の間には精神的な上下関係が存在した。その戒律が妻の死後も彼を縛りつけている。一種の呪縛だ。
だが今も夢精するほどに性欲がみなぎり、キリキリと自分を責め立ててくる。靖子にエロティシズムを覚えずにいられない。そもそも欲望とは抑えつけられるほど強大化するものだ。だから靖子を押し倒したい。しかしそれは妻への裏切りだ。
こうして儀助は妻の呪縛とおのれの性欲を相手に孤独な戦いを続けている。亡き妻に従順であろうとして、自らを追いつめ、その一方で妻との約束に背こうとする自分に罪悪感を抱いているのだろう。
その象徴が、妻が最初に登場する場面だ。食卓に座った妻は儀助が何を語っても口数が少なく、冷たいそぶりを続ける。ベッドで体に触れると「ごめん。疲れてるの」と夫を遠ざける。これは儀助が罪の意識によって冷徹な妻を思い描いたからだろう。
悋気な妻を裏切ろうとするもう一人の自分に呻吟する男。まるで「第二の自我」と格闘しているようだ。老いた知識人の敵は妻の呪縛なのである。
(文=森田健司)