生きることは旅すること 美空ひばり「川の流れのように」を聞くと病床の母を思い出す
数寄屋橋周辺には都電、そして川
元気だった頃の母は、仕立ての婦人服の店を開いていたが、既製服に押され苦労の連続であった。
母の若い頃の面影は実は美空ひばりとよく似ていた。顔が似ると声まで似るものだ。台所で小さな声で「リンゴ追分」を口ずさんでいることがよくあった。
「川の流れのように」を聞くと高校生の頃に母が築地のがんセンターに入院していた頃がよみがえる。
思い出の銀座は64年に開催されるオリンピックまで怒涛の勢いで、どこもかしこも工事だらけであった。銀座周辺の水路、河川は蓋をされ首都高速道路に変わった。
母を見舞いに行った帰りは決まって、ヤマハ楽器や山野楽器店をじっくりのぞき、有楽町駅まで歩いていた。日劇ホール辺りの数寄屋橋周辺には、まだ確かゆらゆらと川が流れ、都電が走っていた。
生きることは旅すること──。思い返せば美空ひばりの最後の歌は昭和に別れを告げた曲であり、自分自身の別れも予感した歌でもあった。
作詞・秋元康、作曲・見岳章のコンビのこの曲は昭和、平成、令和を超えても色あせない名曲である。
美空ひばりは晩年、お酒を浴びるように飲んでいたという。アルコール依存症から脱け出すことができずに死が早まった。