元木大介氏激白 「なぜボクはダイエーの1位指名を拒否しハワイへ野球留学したのか」
でも本当の地獄はここからでした。まず、ダイエーへの入団を正式にお断りしてから、マスコミの大バッシングが始まりました。自宅の集合住宅の敷地内には朝から晩まで報道陣が立っていて、どこに行ってもついてくる。通学の満員電車に乗れば、隣の車両からフラッシュがたかれるといった状態です。学校に内緒で通っていた自動車教習所でもフライデーされ、それで校則違反がバレて大目玉を食らったり……これは自分が悪いんですが(笑い)。
常に誰かに監視されているような生活です。カメラのレンズに怯え、ベランダに洗濯物も干せないと嘆くおふくろは体調を崩し、ボクは自宅に引きこもるようになりました。外に出て、報道陣の問いかけを無視すれば「横柄だ」と書かれ、口を開けば「生意気だ」と叩かれるんですから、本当につらかった。
巨人を逆指名しながら他球団に入団して、ウソツキだと批判されるのならまだ分かります。なんで片思いした巨人にフラれ、公言通りの信念を貫く自分が犯罪者のように扱われるのか。完全に人間不信に陥りました。
大学、社会人に進み4年後、3年後のドラフトで巨人からの指名を待つという選択肢を視野に入れながら、結局、ハワイへの野球留学という道を選んだのは、マスコミからのバッシングから逃れたい、ひとりになりたい、その一心からでした。
野球留学といっても、ハワイでの生活環境、練習環境はひどいものでした。ホームステイ先は、ワイキキから車で約1時間の距離にあるカイルアという住宅地。当時は街灯もなく、小さなお弁当屋さんがあるだけの田舎町でした。夫妻ともに学校の教師だったホストファミリーは、庭に6畳ほどのプレハブ小屋を建ててボクを迎えてくれましたが、確か日本円で1カ月5万円だった家賃には食事代は含まれていません。近くの商店で買い込んだお弁当やカップラーメンを食べる毎日です。ベッドと小さなテレビが置いてあるだけの自室でカップラーメンをすすりながら、「オレ、何をやってんだろ……」と涙を流した夜は一度や二度じゃありませんでした。
練習環境も悲惨です。パートナーは知人に紹介されたトミーという外国人。少年野球でコーチ経験があると言っていましたが、本職は大工さんです。そのトミーが持っていた簡素な打撃マシンと硬球を持って近くの河川敷のグラウンドに行き、練習をする。打撃練習をしても、いるのはボクとトミーだけですから、ボール拾いだけでも一苦労。ファウルチップなんて打ったら、後ろにも拾いにいかなくちゃいけないから最悪。中堅なら中堅、左翼なら左翼へ方向を決めて打つようになりました。球拾いがラクだから。約7カ月間のハワイでの練習で、野球選手としてプラスになったことがあるとすれば、唯一、バットコントロールが良くなったことだけ(笑い)。実戦感覚を養うため地元の草野球チームに入れてもらったりもしましたが、相手も草野球ですからね。どんどん野球が下手になっているんじゃないかと日に日に不安が募るだけでした。
そんな生活を7カ月。ドラフト後にあれだけ煩わしかった日本と人が恋しくなって、孤独と不安でどうにかなりそうでした。高校時代にチヤホヤしてくれた人たちは、ドラフト後にはみなサーッといなくなり、ハワイに行ってからは本当になしのつぶて。唯一、連絡をくれたのがアナウンサーの徳光和夫さんと高校の野球部の同級生の2人だけでした。徳光さんとその同級生には今も感謝しかありません。同時に人の薄情さも知りました。
翌90年のドラフトはハワイで迎えました。前日に当時の正力オーナーがボクの1位指名を公言したと人づてに聞いても、前年のことがあるからまったく安心できません。巨人の単独1位指名が確定したときはうれしさより安堵感の方が強かった。
契約金の9000万円はすべて両親に渡しました。親戚に頭を下げてハワイへの留学資金を工面してくれた両親へのせめてもの親孝行のつもりでした。
ハワイで過ごした約1年間のブランクは、野球選手としてはやっぱり大きかった。入団後はプロのあらゆるスピードの速さに愕然としました。直接、プロに入っていたらどうだったかな、もう少し成績を残せたかなと今になって妄想することはありますが、後悔は一切ありません。
巨人でレギュラーを獲得することはできなかったものの、15年間も現役を続けさせてもらった。05年9月に引退を決意しました。まだ33歳。他球団から声をかけていただいたものの、あれだけ思い焦がれて、苦労して入ったジャイアンツ以外のユニホームを着ている自分が想像できませんでした。