<第3回>父親を襲った“燃え尽き症候群”の顛末
ところが――。
「10月とか11月になると、また、野球をやりたくなってしまったんですよ、これが(笑い)。もう一度、やりたくなって、監督に『実は……』と切り出したんですけど、おまえ、断ったじゃないかという話になって。いまの時期では行くところも限られちゃうよ、大学しかないよと。東京と神奈川の2つの私大ならという話だったんですが、大学は上下関係が厳しいし、殴られるのは嫌だとずっと思っていたんです。監督に正直に気持ちを打ち明けると、じゃあ、分かった、心当たりがあると」
黒沢尻工野球部OBで、徹の7つか8つ年上の先輩が当時、社会人野球の三菱重工横浜でキャプテンを務めていた。その先輩のツテで11月、セレクションを受けさせてもらえることになった。
三菱重工横浜にはすでに、高校生3人の入社が内定していた。そのうち2人は後にプロ入りする。ひとりは83年のドラフト3位で阪急(現オリックス)に入団した飯塚富司。もうひとりは85年のドラフト2位で阪神に入団した中野佐資。中野は阪神時代、和田豊(現阪神監督)、大野久とともに、村山実監督から「少年隊」と呼ばれた選手だ。「僕は高校生で4人目。時期も時期でしたし、取っていただいたという感じ」と徹は話す。