“新東洋の魔女”前田悦智子さん 34歳差婚支えた母の言葉
田村(旧姓前田)悦智子さん(女子バレー/76年モントリオール五輪金)
新東洋の魔女の一人、前田悦智子さんはいま1000坪の豪邸に暮らす。
現役時代はその高い打点から打ち込む強烈なスパイク“稲妻おろし”を武器に、レギュラーメンバーとして1974年世界選手権、76年モントリオール五輪、77年ワールドカップで驚異の3冠を成し遂げた。
引退から数年ののち、日本中を沸かせた大スターが結婚相手に選んだ男性は34歳も年上だった。
「五輪後は所属会社の三洋電機で秘書として(後に夫となる)専務の田村巧(享年92)の下で働きました。本当に仕事の出来る方で、努力している相手にはすごく敬意を払うような人柄。年の差も感じさせないくらい話も性格も合いましたし、親には相談できないことも自然と話せました。私の父は三洋電機とも関わりのある、当時はそこそこ大きな貿易系の会社を経営していたので田村ともつながりがあった。だから私の家族と、田村にも家庭があったので、両家で家族ぐるみの付き合いをしていました」
この時は恋愛感情などみじんもなかった。既に職場のラグビー選手の男性と交際していたからだ。しかし、前田さんの両親はその付き合いに反対したという。
恋愛で悩み、恋人とはいったん距離を置いて自分でもよく考えてみようという思いから、前田さんは27歳の時に退職を決め、東京の実家に帰った。
「自分が病弱体質をバレーで克服した経験から、健康に関わることをしたい気持ちで、姉と美容サロンを立ち上げました。エステティシャンとして国際免許も取りましたが『こんなゴツイ手で顔を触られたら私は嫌だな』と思い、自分は健康体操を担当しましたね(笑い)」
一方、田村氏は群馬県に住居を構えていたが、東京に出張する機会は度々あった。前田さんは数回、姉夫婦も交えて食事をしたという。そんな中、田村氏は妻を病気で亡くした。3人の子は既に独立していたこともあり、独り身となった田村氏には縁談を勧める声もあった。
「電話でその相談をされたので、良い人はいないかなと探していたんです。でもその数カ月後、東京で姉夫婦と田村の4人で食事をしたとき『こいつは結婚しないのか。俺はプロポーズしているのに』って突然言ってきた。えぇ! って心底驚きましたよ。あの“相談”ってそんな意味だったのかって」
必ず返事はしますから、と約束してその場を切り抜け、悩みに悩み、答えを出したのは半年後だった。父や兄は34年の年の差に「将来寂しい思いをする」と心配したが、母の言葉が背中を押した。
「『10年間幸せだなって思えたら、その結婚は幸せだよ』って言ってもらい、気持ちが固まりました。年の差を不思議に思う人もいるかもしれないけど、私と田村が一緒にいる姿を見たら分かるはず、という自信もあった。返事をしたいと伝えると、田村は、群馬からすっ飛んで来ましたよ(笑い)。私の答えにビックリしていました。それからはあっという間。29歳の秋に返事をして、30歳の5月に結婚式。まさにトントン拍子です」