金メダリストが華麗なる転身 小幡洋次郎さんはホテル経営
小幡洋次郎(旧姓・上武)さん(レスリング フリースタイルバンタム級/64年東京五輪、68年メキシコシティー五輪金)
“無心にして一途なり”
群馬県立館林高でレスリングを始めたばかりの頃、“ひとつのことを一生懸命にやれ”と父から贈られたこの言葉を座右の銘とした。
選手時代は一心不乱に競技に打ち込み、1964年東京五輪に続き、68年メキシコシティー五輪でも57キロ級で優勝。2大会連続金メダルという偉業を成し遂げ、ここで競技人生の幕を下ろした。それからセカンドキャリアへの転身は早かった。
金メダルを日本へ持ち帰ってからわずか1カ月後に結婚式を挙げ、婿養子として小幡姓に変更。妻の実家が経営する旅館業に腰を据えようと決意した。
父、祖父ともに教師の家庭で次男として育った小幡氏は、もともとは自身も大学の教員となりレスリングに携わりながら研究者として働くビジョンを持っていたという。
「メキシコ五輪の2年ほど前、アメリカ留学中に父の友人から『お婿さんを探してるみたいだから文通でもどうだ』と今の妻を紹介されました。写真を見た時は清楚な人だなぁと。僕は悩まない性格ですし、親がいいって言うなら婿入りもいいかなと、1年ほどやりとりをして婚約しました。実際、名字が変わることに全く抵抗はなかった。レスリングはもう十分やったから、名前を変えて新しい商売をするのも、別の人間が別のことをするみたいで、かえって面白いという気持ちがありました」
30年間レスリングを断つ
旅館での仕事を覚えていく傍ら、72年ミュンヘン五輪では日本代表コーチとして4個、監督だった76年モントリオール五輪では6個のメダル獲得に貢献した。
しかし、以来30年間、小幡氏がレスリングと関わることはなかった。
「30代半ばくらいに土地開発や区画整理のために旅館を移動させることになりました。私が婿入りした時は家族経営の小さな旅館でしたが、時代もあってこの際ホテルに切り替えようと。ここが転機です。銀行からお金を借りて本格的にビジネスをやるわけで、それだけに集中したかった。商売は難しいです。レスリングはリングに上がってくる敵をやっつければいいけど、商売はどこをつつけば勝てるのか分からない。だからこそ誠実、親切、謙虚を心掛けて仕事に取り組みました」
オリンピアンのブランドを生かせばさまざまなメリットが見込まれるが、小幡氏は自身がメダリストであることを極力伏せながら仕事をしていたという。金メダルも生まれ故郷の群馬県邑楽町に寄贈した。
「大きなことを言って生意気だと思われるのも嫌でした。よく友人からは『アンタ、全くレスリングの話はしないねえ!』と冷やかされます(笑い)。メダルは子や孫には関係ありませんし、寄贈すると自分が死んだ後でも多くの人に見てもらえる。メダルも喜んでいるはずです」
飾らない謙虚さがホテル経営に生きたのかもしれない。現在は栃木県足利市にホテルを2つ構えている。合計客室数は120でレストラン完備。一方には結婚式場も用意されている。
育てた会社を娘婿に譲り、2010年からは母校・館林高でレスリング部のOB会長として指導を始めた。それから現在まで無遅刻・無欠席。生徒たちよりも情熱をたぎらせてレスリングと向き合っている。
「最近やっと指導者としての結論が見えてきました。私の役割は2つだけ。選手が悩んだりした時の適切なアドバイス、良い環境を整える、これに尽きます。上達する選手は自分で頭を使いながらやるから、ひとりで強くなっていく。本人次第というところが大きいです。これは仕事でも同じ。言われたことしかできない人は大成しませんよね」
間もなく指導開始から10年。この節目を機に指導を終えるつもりだ。
趣味はお酒、グルメ。とりわけ数年前から再開したゴルフにも熱を上げ、毎日1時間は練習しているという。
「せがれ(娘婿)がゴルフのライバルですよ。負けていられません。お酒も大好きで、人と話すと楽しくてつい飲み過ぎちゃうから気を付けないとダメですね」
今年1月に77歳になった小幡氏。大学生の2人の孫にも恵まれ、今日もクラブを振っている。
▼おばた・ようじろう 1943年1月12日生まれ、群馬県邑楽郡出身。群馬県立館林高卒業後、早稲田大へ進学。米オクラホマ州立大、同大学院に留学。64年東京五輪57キロ級、68年メキシコシティー五輪同級で連覇。現在は母校・館林高で指導に励む。