工藤章さん モントリオール銅から新宿にビル持つ実業家へ
工藤章さん(レスリング/76年モントリオール五輪銅)
メダリストから実業家へ――。
専修大学1年生の時に国体優勝、2年生から日本選手権を4連覇し、金メダル有力候補として出場した1976年モントリオール五輪。当時のレスリングはバッドマーク(罰点)システムといわれ、罰点(フォール負け4点)が6点に達した選手から失格となる試合方式で行われた。工藤氏は順当に勝ち上がったが、6回戦でロマン・ドミトリエフ(ソ連)と両者警告による引き分け。7回戦(決勝)はハサン・イサエフ(ブルガリア)に警告の判定負けを喫し、バッドマークにより銅メダルに終わった。
「6回戦、決勝とも攻めていながら、審判に攻めていないと判定されて失格になったのです。決勝の審判3人は全て共産圏出身者でした。日本に3個(フリースタイル52キロ級高田裕司、同74キロ級伊達治一郎)も金メダルを取らせたくないという思惑が働いたのでしょう。当時は今と違ってスポーツ仲裁裁判所はなく、泣き寝入りするしかなかったのですが、その後、3人の審判は資格停止処分を受けたと聞いて留飲が下がりました」
■「スポーツでは食えなかった」